この思いは、奇跡的に生還した山口永元少尉(94)、永井敬司元軍曹(94)両名にしても同じ。山口氏らは米軍上陸から70日間にわたる激戦、飢餓、砲弾の中を頑強に同島を守り抜いただけでなく、味方の玉砕も日本の無条件降伏も知らないまま戦後2年半も洞窟に潜伏し、ゲリラ戦を展開した生き証人でもあるからだ。
1944年11月24日を最後に、中川州男大佐率いる茨城県水戸市で編成された陸軍歩兵第2連隊を主力とするペリリュー島守備隊は玉砕し、組織的戦闘は事実上終結。この攻防戦で日本軍は陸海合わせて約1万人、米軍は約1700人が戦死した他、約9000人の負傷者を出した。
これに動揺した米軍は第1海兵師団長を解任しただけでなく、事実さえ伏せた。米国民に納得のいく説明ができないため、不都合な事実の隠蔽を謀ったのだ。
実際、太平洋における海軍作戦を指揮したチェスター・ニミッツ海軍司令長官は、後に著した『ニミッツの太平洋海戦史』の中で、「ペリリュー島で払った犠牲と獲得した代価とを比較し、相殺したかどうかは疑問の余地がある」と回想している。
このように米軍にとっても“会心の勝利”とはとても言えず、苦汁に満ちた上陸作戦だったのだ。
ペリリュー島は日本から南に約3000キロ。大小百個ほどの島が連なるパラオ諸島の一つで、第一次世界大戦で戦勝国となった日本がドイツから統治権を委譲したもの。常夏の島であり、燐鉱石の採掘以外さしたる産業はない。にもかかわらずニミッツ長官は4万2000の兵力を投入し、70日間もの死闘を展開したのは、大型機の離着陸が可能な飛行場を奪取し、これを足場にフィリピン攻略と日本軍の海上輸送ルートを遮断するという二つの戦略を描いていたからだ。そのため、大本営は米軍を阻止すべく、第14師団の南方転出を下命する。
第14師団は水戸歩兵第2、高崎歩兵第15、宇都宮歩兵第59各連隊を隷下に置き、関東軍直轄部隊としてソ満国境警備に就いていた。しかし、絶対国防圏決定で第一陣として1944年4月、パラオに転進する。
ペリリュー島の守備隊長に就いた中川大佐の初仕事は陣地構築であった。連隊上陸前の同島は2500人ほどの海軍が守備していたが、ほとんど無防備状態。そのため山口氏は唖然としたという。
「兵力も少なければ陣地壕もなく、全く裸同然だった。これではやられて当たり前、そう思いましたよ」
米軍機による3月末のペリリュー島空襲で飛行場は破壊され、無残な姿をさらしていた。そのため中川守備隊長はサンゴ礁の洞窟、燐鉱石の採掘跡、中央山地を要塞化し、複郭陣地を構築すれば長期戦に有利、と判断する。
複郭陣地とは、壕と壕を卍型あるいは直角の通路で結ぶというもの。こうすれば壕内に火炎放射器や手りゅう弾を投げ込まれても直撃が避けられる。この複郭戦術は、従来の水際戦術の失敗から学んだ。進攻してくる敵艦をまず航空機で洋上撃滅し、続いて上陸部隊を海岸で迎撃するというものだったが、この作戦だと各地の守備隊は短期間で玉砕してしまう。そこで中川守備隊長は複郭戦術を採用した。これはその後の硫黄島、沖縄戦でも用いられた。
中川守備隊長はこの他、神出鬼没のゲリラ戦や夜襲攻撃を仕掛ける。万歳突撃を封じ、最後の一兵まで戦い自決を認めないなど、いくつかの戦術的特徴があった。
実際これが功を奏し、「戦いは厳しいが短い。3日、長くて4日で終わる」と大口をたたいたウィリアム・リュパータス第1海兵師団長にひとアワもふたアワも吹かせるのだった。