20年前の80年代、スピードスケートで名を馳せていたのが黒岩彰だった。世界スプリント選手権では83年大会と87年大会で2度総合優勝。86年大会は3位だった。そして、84年のサラエボ、88年のカルガリーと冬季五輪にも出場、カルガリーでは優勝候補でありながら、500メートルは銅メダルに終わった。
サラエボの時、黒岩は専修大の4年生だった。当時の500メートルは一つのスタートコースを滑って順位を決める“一発勝負”というルールであった。黒岩はアウトコースを選んで滑った。
優勝候補の一人というプレッシャーの中、天候不良によるスタートの遅れやリンクコンディションの悪さなどの不利な状況が重なっての10位だった。
「言うほどの問題ではない」と、黒岩は言い訳をしなかった。この年、大学を卒業すると同時に西武鉄道系の国土計画(コクドを経て現在は解散)に入社。スケート部に所属して第一線で活躍した。
88年のカルガリーを最後に現役を引退、同部の監督に就任。そして中長距離の第一人者となった白幡圭史を育て、98年の長野五輪にコーチとして同行。その後、コクドから西武ライオンズ球団に出向、同時にスケート部監督も退任した。
00年9月13日、新人投手だった松坂大輔が起こした不祥事に身代わりとなって警察に出頭した。しかし、その隠蔽行為が写真週刊誌に報じられたこともあって、松坂とともに東京地検に書類送検された。この一件で黒岩は辞表を提出することになった。04年に西武球団社長に就任するが、06年にプリンスホテルに人事異動。だが、07年5月に発覚したプロ野球裏金問題で降職となり、7月にプリンスホテルを退社した。
その後の08年4月から富士急行スケート部監督に就任、再びスケート界に復帰した。