この成功を受け、初年度は4日間だった開催日数は、翌年からは春秋3日間ずつ、計6日間に増やされた。その後、出走頭数、入場人員、売上高とも八王子競馬は順調に数字を伸ばしていった。そこで、現状の施設では手狭となった競馬場に移転案が持ち上がる。
移転先をめぐっては、近隣農民の反対の声などもあり、一筋縄ではいかなかったが、最終的に現在の八王子市と日野市の境目、甲州街道とJR八高線(八王子〜北八王子間)が交差する付近の日野市旭が丘2丁目〜6丁目付近に落ち着いた。
こうして34(昭和9)年、総面積8万坪の新競馬場が建設された。馬場は2万坪で1週1600m、幅員30m。現在の競馬場の規格に比べても見劣りしない立派なコースだった。
ところで、戦前の八王子競馬の馬券はどのようになっていたのであろうか。当時、地方競馬は正式な馬券を発売することが認められておらず、それに相当するものとしてあったのが、「優勝馬投票券付入場券」。この入場券には1〜12枚の投票券がついており、当然、その枚数によって値段が違った。また、投票できるのは1競走につき1枚1円と決められていた。当初は単勝のみで、配当は最高10倍まで。しかも、当たっても現金が払い戻されるのではなく、相当分の商品券がもらえるという仕組みだった。
その後、この入場券は1枚につき、馬券が1枚、つまり一人1回しか馬券が買えない方式となった。その引き換えとして、配当金は公認競馬(現在の中央競馬にあたる)並に引き上げられる緩和措置が取られた。
こうして馬券の発売に関しては、試行錯誤が繰り返された。そして、誕生したのが今日の馬券の礎ともいえる「フォーカス馬券」だった。次回はこの「フォーカス馬券」の“正体”を中心に綴っていきたい。
※参考文献(大井競馬の歩み/悲運の多摩八王子競馬/八王子の歴史と文化)