だが上山は競輪をオリンピック種目にするため中米諸国の選手育成に大きく貢献している。エルサルバドルにコーチとして派遣され、オリンピック種目としての最低条件「世界50か国で競技しているスポーツ」をクリアした。
この地味な功績があって、シドニー五輪の2000年には競輪がオリンピックに採用され、北京五輪では永井清史(岐阜)の銅メダル獲得につながっている。
福井にこれはと思う選手が出てきたのは鷲田善一(33期)だ。デビューしてしばらくは先行で闘っていたが、追い込みに変わるや「アイツは強引なレースをするくせ者」というイメージづくりが実った。失格もあったが「闘ったら決して負けない」という信念でレースに臨んでいたからだ。
昭和52年のダービートライアル・前橋では矢村正(熊本)の後ろを最終ホームで追い上げ、藤巻昇(北海道)に競り勝ったレースからマーク選手としてファンに強い印象を与えた。
鷲田は後輩の指導にも努めた。ヨーロッパへのロード合宿や「競輪選手の職業的な安定と社会的地位の向上」を目指した広報紙「バンクジャーナル」の自費発行。選手会の支部長としても活躍、選手の福利厚生や権利追求にも奔走した。
息子の佳史(88期)は宮城国体のポイントで準優勝した地脚型。現在はA級に落ちているが、逃げ差しと自在型に変わっている。天性の地脚を活かして競り込み、追い込み型として父に追いつく日が期待されている。