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“交通事故死”と断定の男子高校生、遺族と警察が裁判で争った“他殺の可能性”とは【未解決事件ファイル】

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 1999年10月25日、北海道中標津町の道路脇で男子高校生が遺体で発見された。遺体の傍にはオートバイがあり、警察は早々に単独事故死であると断定。遺族は警察の断定に猛反発するも覆ることはなく、2006年10月22日に時効が成立した。

 遺体で見つかったのは、中標津町に住む当時16歳のAさん。1999年10月22日の午後5時頃、友人宅で遊んでいたAさんは「別の友人の家に行く」と出発した後、行方が分からなくなっていた。

 同日、夜になっても帰宅しないAさんを心配した家族は、地元警察署に通報。家族は警察、学校関係者と一緒になってAさんの行方を捜索したが、Aさんを見つけることはできなかった。

 事件が動いたのは、Aさんが行方不明になってから3日後の10月25日。Aさんの捜索をしていた一人が、標茶町の道路脇で倒れているAさんを発見した。発見者はすぐさま警察に通報したものの、警察が駆け付けた時にはAさんは既に死亡していた。

 Aさんの身に一体何が起きたのか、真相を明らかにすべく地元警察署による捜査が開始された。しかし、その捜査はあまりにもずさんなものだったようだ。

 Aさんの遺体は病院に運ばれ、医師による死体検案診断を受けた結果、死因は「頸椎骨折による即死」であるとされた。しかし、後に誤診だったことが判明。死因は「頭と胸部の打撲による失血死の可能性が高く、即死ではなく事故後1日から2日生きていた可能性がある」と訂正された。なぜか司法解剖はされていない。

 地元警察署は、Aさんの遺体の傍に中標津町内で盗難されたオートバイが転がっていたことから、早々に「無免許運転で盗難したオートバイを運転していたAさんが、カーブを曲がり切れずに立木にぶつかった単独交通事故死」と断定。これに不信感を抱いたAさんの家族は、協力を申し出た弁護団と協力し、遺体発見現場での調査や関係者の聞き取りを独自に続行したそうだ。その結果、Aさんの単独事故死とするには不自然な点が多いことが判明。

 事故死とするのに不自然な点の1つ目は、発見時のAさんの遺体の状態だ。身体が仰向けで、足は揃えられており、靴や軍手が散乱していたが、フルフェイスのヘルメットは顔の右横に置かれていたという。さらに、オートバイはAさんの遺体が発見された5メートル先の斜面に立てかけてあったそうだ。現場には事故死にもかかわらずブレーキ痕が一切見られなかったという。

 2つ目は、現場に残されたAさんの遺留品。10月25日の遺体発見時には発見されなかったAさんのメガネが、11月6日にAさんの家族が現場を訪れた際に発見。メガネは折りたたまれた状態で、傷一つなかったという。

 3つ目は、Aさんの衣服や身体に外傷がついてなかった点である。木にオートバイでぶつかって外傷がないというのは考えにくいため、Aさんの家族はどこか別の場所で殺されたのではないかと考えたという。

 Aさんの家族はその後も調査を続け、最終的に複数の法医学者から「他殺の可能性がある」という鑑定結果を得た。しかし、一向に警察は動いてくれないため、Aさんの家族は2001年10月には北海道県警に捜査資料の開示請求、同年11月には道情報公開審査会に審査を請求するも、両方とも却下されてしまう。同審査会は2003年3月、「公文書の存否を明らかにしない決定処分が妥当である」と却下の理由を説明した。

 2003年11月26日にAさんの家族は、被疑者不詳の「傷害致死事件」として北海道県警に告訴。しかし、2005年12月28日に検察は「オートバイの単独事故」であると認定し、不起訴とした。そして、2006年10月22日には公訴時効が成立し、捜査は打ち切りとなった。

 警察が早々に事故死であると判断したAさんの事件。その後、遺族の調査によって不自然な点が発見されたが、なぜ司法解剖は行われなかったのだろうか。本当に事件性はないのだろうか。2019年9月現在、単独事故死として処理された本件に動きは見られない。

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