合わせて発売された馬券は競馬の普及に大変大きな役割を果たした。が、桂太郎内閣の政府部内で十分な討議がなされず、いわば“黙認”の形で開始されていた。「馬券は賭博なり」という問題は、その解釈をめぐって、政府、議会、行政内部の論争に発展していった。
また、馬券はファンの射幸心をあおり、その結果、馬券に夢中になった末に散在、なかには経済破たんする者も少なくなかった。これら社会的な混乱に歯止めをかけるため、政府は明治41(1908)年10月、ついに馬券発売を禁止した。この禁止措置は、外国人経営の根岸競馬場にも適用された。
その後、目黒競馬場を開設した日本競馬会は、東京周辺の6社と合併し、明治43(1910)年に東京競馬倶楽部を設立した。この合併により、川崎、板橋、池上の競馬場は廃止され、目黒だけがそのまま残される形となった。
その年の7月、馬券禁止の下で、開催された同倶楽部の第1回競馬は、政府補助による賞金を各馬が争うという内容で、お金が賭けられない観客としては興味をそがれるものであった。一方で、人々の射幸心は抑えがたく、観覧中にひそかに馬券売買をしたとして、著名人ら13人が検挙される事件も起きている。
ともかく馬券廃止後も、人々のギャンブル熱は一気に冷めるものではなかった。
※参考文献=目黒区50年史/月刊めぐろ(80年5月号)/みどりの散歩道