「1度レースを使うと翌日は歩けなくなるくらいに疲労が残った。だから、1、2度使っては放牧、1、2度使っては放牧の繰り返しでした」(児玉助手)。期待の大きさとは裏腹に、クラシック出走はおろか、未勝利を勝つまでに3戦を要す苦難のスタートを切った若駒時代も今となっては、懐かしい思い出だ。
焦らずじっくり“時”を待ち、5月の金峰山特別(3着)で復帰した4歳の昨年は半年で8戦を戦い抜けるまでたくましさを増し、虚弱体質から見事に脱却したスズカフェニックス。年明け2戦目の東京新聞杯では待望の初重賞制覇を成し遂げ、5歳の今年が猪突猛進の「勝負の年」であることは、精鋭スタッフたちの殺気立つ目の色からも容易に察しがつく。
もっとも、まばたきをも許さず、息をもつかせない1200mの電撃スプリント。高松宮記念が初のGI夢舞台となろうとは名将にとっても予想外だったに違いない。
「1600mでも行きたがって乗り難しい」(橋田師)。弱さを長所に変えるべく、新たな分野にチャレンジするこの一戦。試金石に位置付けた前走の阪急杯では、4角で大外に振られながらも上がり3F33秒9というメンバー最速の末脚を刻み、「あと一完歩あれば」と天才・武豊が唇をかみしめたハナ差3着(1着2頭同着)に激走している。
この内容に、橋田師は「結果として届かなかったが、スタートからどんなレースでもできそうな手応えだったし、終いもいつも通りの伸びだった」とスプリント能力に期待する自分の目に狂いがなかったことを実感。納得の表情で高松宮記念にゴーサインを出した。
「2歳の時は1800mの東スポ杯2歳Sを勝ち、3歳時は3000mの菊花賞を使ったのに、勝ったGIは1200mの宮記念。不思議な馬だった」。振り返れば2年前のアドマイヤマックスの歓喜のゴールインが、しかとまぶたにリンクするフェニックス。ちなみに母の全兄であるシンコウキングも、1997年の高松宮記念の勝ち馬だ。
「直前の(坂路)時計はエラーだったが、真っすぐ駆け上がってきていい動きだった。GIの1200mはGIIIの1200mと違って、長い距離に対応できる馬が強いし、小回りで直線が短くても対応できると思っているからこそ使うことに決めたんです」
待ちに待った名将の輝く瞳と揺るぎない自信の前には、初GI挑戦で初勝ちという快挙もたやすく思えてならない。