しかし、最近は種牡馬のレベルが各段に上がったことに加え、馬の飼育技術も進歩したことが大きな要因となって、一頭の名牝から走る馬が続出することも珍しくなくなった。
そんな潮流のさきがけとなったのが、1998年のラジオたんぱ賞(現・ラジオNIKKEI賞)を制したビワタケヒデの母パシフィカスだった。
アメリカから輸入された時、すでに受胎していたシャルードの牡馬は後にビワハヤヒデと名づけられ菊花賞、天皇賞・春、宝塚記念とGIを3勝した。
さらに1歳下の弟、ブライアンズタイム産駒のナリタブライアンは3冠馬に輝き、他にも朝日杯3歳S、有馬記念とGIを5勝もした。
そして、そんな偉大な兄たちと同様の期待を背負ってデビューしたのがビワタケヒデだった。父はナリタブライアンと同じブライアンズタイム。所属したのは名門としての礎を固め出したころの松田博厩舎だった。
今のようにPОGが盛んだったなら、間違いなくドラフト1位の逸材だ。しかし、その道のりは兄たちのように順調でも派手でもなかった。デビュー戦は競走中止。やっと未勝利を勝ち上がったのは3戦目で、その後も一進一退を続け、皐月賞にもダービーにも出られなかった。それでも6月には中京で500万特別を勝ち、駒を進めたのが「残念ダービー」といわれるこのレースだった。
藤田騎手を鞍上に据え、道中は8、9番手の中団をキープ。直線は力強く抜け出して、メイショウオウドウの猛追をクビ差退けた。4番人気だったが、勝ち時計はレコードに0秒3差の1分45秒6と非常に優秀。ようやく良血馬が素質を開花させたと当時は話題になり、兄が2頭とも制した秋の菊花賞候補に躍り出た。
しかし、いいことは長く続かない。次走の小倉記念で3着した後、故障が判明。そのまま引退、種牡馬に転向したのだが、兄2頭と同じく父親としてはまったくパッとしなかった。
一時代を築いた名血パシフィカス一族。彼らにとって唯一の心残りはそれか。優れた遺伝子が後世に残らないのは、残念な気がしてならない。