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遠い記憶 根岸競馬場の歴史(17)

 米国から横浜に来て輸入商を営むかたわら、1896(明治29)年に、日本レースクラブの委員となったS・アイザックスは、東京地方が関東大震災に見舞われた1923(大正12)年から理事長に就任した。
 大震災から修復した根岸競馬場の新スタンドは、これまでの木造にかわる鉄骨・鉄筋コンクリートの高層建築で、アイザックスの競馬運営の豊かな経験をもとに、最新の技術を生かして設計された。

 一等館は地上7階、延べ面積7700平方メートル、観覧席4500席のほか、貴賓室、委員室、食堂、騎手室、休憩室、事務室などが入り、その東側に並ぶ二等館も同じ高さで、観覧席は入場者増に伴う1932(昭和7)年の増築を加えて1万2000人収容となった。1934(昭和9)年にはガラス張りの天蓋ひさしが増設された。
 新スタンドはこれら増築を含め、5年がかりで完成。総工費55億円をかけ、当時としては目を見張る近代建築であった。天蓋ひさしは大きく前面に張り出しているものの、支柱はできるだけ少なくして、左右のコーナーもよく見渡すことができた。はるか彼方には、東京湾と三浦半島を一望できる眺めの良さだった。
 この根岸のスタンドは「日本で一番見やすい」といわれ、全国各地のスタンドのモデルとされた。
 一方、このころの日本は震災に次ぐ、経済恐慌に見舞われていた。この打開策をアジア進出に求めた日本は1931(昭和6)年9月の満州事変ぼっ発を機に軍拡充の動きが高まる。1932(昭和7)年の上海事変、1933(昭和8)年の国際連盟脱退、1936(昭和11)年の2・26事件を経て、1937(昭和12)年7月7日、日中戦争を迎えることになる。
 ※参考文献…根岸の森の物語(抜粋)/日本レースクラブ五十年史/日本の競馬

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