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経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(69)

 日本は昭和金融恐慌から世界大恐慌、金解禁と続く苦境を脱するために、中国大陸へ進出して行った。昭和6(1931)年9月の柳条湖事件を発端とする満州事変で、大日本帝国陸軍(関東軍)は、わずか5カ月で満州全土を占領。翌昭和7年3月には日本の傀儡政権・満州国を建設する。こうした動きの中で日本は景気を回復するかに見え、国民の間には軍部は頼りになるという空気が広がる。同時に軍部は発言力を強め、昭和12(1937)年の日中戦争へと進んで行くことになる。

 一方、中華民国(現・中華人民共和国)内では抗日運動が激化し、各地で関東軍と衝突を繰り返した。中華民国政府は、日本による満州国建設を不当なものとして国際連盟に提訴した。国際連盟日支紛争調査委員会はイギリスのリットン卿を団長とするリットン調査団を満州に派遣。調査団は3カ月にわたる調査の結果を報告書(対日勧告案)にまとめ、1932(昭和7)年10月に内容を公表した。

 それは、日本の満州における特権を認めるが、形式的には日本は満州を中華民国に返還すること、というものだった。翌1933年2月にスイス・ジュネーブで開催された国際連盟特別総会に於いて、この対日勧告案が可決されると、それを不服として日本代表の松岡洋右は総会会場から退場。松岡は帰国すると、国民から熱烈な歓迎を受ける。翌3月、日本は国際連盟を脱退した。
 1929(昭和4)年10月のアメリカ・ウォール街の大恐慌の影響はたちまちヨーロッパ各国や日本に及び、世界的な大恐慌状態になった。イギリス、フランスなどの植民地を持つ大国はブロック経済を作り、イタリア、ドイツなど、僅かな植民地しか持たない国は、植民地を求めて近隣諸国に進出していった。日本の中国大陸進出も、こうした動きの一つだ。
 浜松高等工業学校の高柳助教授の教え子・笹尾が入社したのは昭和6(1931)年。この年、早川金属工業研究所はテレビの研究に着手した。また、陸軍から特殊短波受信機の注文が入った年でもあった。

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