立大時代に顔面に死球を受け、歯を何本も折り、医務室に運ばれたのに、応急処置だけでそのままプレーした伝説がある土井さんだが、巨人でも不死身ぶりは変わらなかった。腰にチューブを何重にも巻き付け、プレーしたこともある。あの小さな体でV9巨人の不動の二塁手を務められたのは、ケガなどに絶対に負けられないという、誰よりも強い負けん気があったからだろう。
実際にサバイバル競争はすさまじかったからね。打者だった土井さんが一塁に駆け込み、倒れ込む。トレーナーが飛んで行くのと同時に、ライバルの滝さん(安治氏)さんまでもが駆けつける。それで何をするかと思えば、ベンチへ向かって×印のサインを送る。自分と土井さんを交代させた方がいいとベンチへアピールしているのだ。油断も隙もない。すぐに足を引っ張られる。
土井さんのプロ入り早々の伝説は、多摩川での打撃練習だった。1本も打球が内野を越えなかったのだ。遊撃手としても肩が弱く、二塁に転向させられている。攻守共にいきなりダメ出しだ。普通なら自信喪失して、そのまま潰れてもおかしくない。
が、口の悪い関西人の土井さんは、浪速のド根性物語そのものだ。逆境をそのまま成功に変えてしまう。非力な打撃を生かし、バントの名人、ゴロを打つエンドランの達人に。肩が弱くても致命傷にならない二塁で、「近代野球のキーマンは二塁手」という、新しい金看板を作ってしまった。
ベンチにいるV9参謀の牧野さんから二塁の土井さんにサインが送られる。土井さんが外野手に指示を伝える。「近代野球のキーマンは二塁手」の言葉そのままだった。マウンド上の我々投手に対してもいろいろなアドバイスがあったが、厳しかったよ。
西武の黄金期の捕手・伊東→二塁・辻→中堅・平野のセンターラインが評判だったが、捕手・森→二塁・土井→中堅・柴田の方が、偏差値は高かったね。なにしろ土井さんの野球好きには参った。みんな逃げ腰になっていた。次から次へと話が出てきて、一度つかまると、2、3時間は離してくれない。でも、ロッカーで車や株の話をしている今の時代の連中を見ていると、野球を熱く語る、土井さんの野球談義が貴重なものだとよくわかるし、聞けなくなったのは寂しいよね。
オリックスの監督時代は、振り子打法のイチローを二軍に落とした、見る目のない監督と批判されたこともあるが、こう反論して譲らなかった。「二軍に落としたことは間違っていない。二軍を経験したから、今のイチローがある」とね。野球に信念を持っており、曲げなかった。最後はイチローも土井さんを認め、和解したからね。
東大の麻酔の権威だった父を持つ素敵な奥さん、子供もお医者さんになっており、土井さんは野球と同じように家族を大事にしていた人だ。時代の流れとはいえ、V9時代の偉大な先輩がいなくなるのは、本当に寂しいよ。
<関本四十四氏の略歴>
1949年5月1日生まれ。右投、両打。糸魚川商工から1967年ドラフト10位で巨人入り。4年目の71年に新人王獲得で話題に。74年にセ・リーグの最優秀防御率投手のタイトルを獲得する。76年に太平洋クラブ(現西武)に移籍、77年から78年まで大洋(現横浜)でプレー。
引退後は文化放送解説者、テレビ朝日のベンチレポーター。86年から91年まで巨人二軍投手コーチ。92年ラジオ日本解説者。2004 年から05年まで巨人二軍投手コーチ。06年からラジオ日本解説者。球界地獄耳で知られる情報通、歯に着せぬ評論が好評だ。