駅前と言うことも有り、小さな祠はなお更不思議な空間を創り出していた。訪問した日が日曜日と言うこともあって、人の数はまばらだったが、平日には近くにある千葉大学の学生達で賑わっているという。
神社の鳥居の左手には、この神社の由緒が書かれた看板が立てられていた。何でも江戸時代に与助と言う二十代の若者が、うなぎを卸しているとある年長の女将さんと恋仲になり、それが発覚して、与助は西千葉の刑場で処刑をされることが決まったという。その道中、歯の強い男が与助の縄を歯で噛み切って、与助は江戸へと逃亡を図ったのだそうだ。
その後与助は小さな旅館で真面目に働き、その店は良く繁盛した。その後家族にも恵まれていたのであるが、与助の頭には自分が逃亡してきた西千葉で、他の処刑された人々への思いが募り、ある日彼は西千葉へ出向き、小さな石を積み上げて供養したとのことである。
そのことを与助は死ぬまで誰にも話さなかったが、死の直前に信頼を置いていた一番弟子に小声でそのことを話したという。遺言として与助は自分の代わりに供養を続けて欲しいと言い残し、亡くなったそうだ。
その場所一帯は、江戸時代に佐倉藩の刑場跡だと言われており、その祠も元は「首切り山」と言われた山の上に有った物が、開発時に移転されて今の場所にあるのだという。
駅前ロータリーには大きな松の木が立っている。切ると祟ると言う噂があり「祟りの松」と言われている。
現在は平穏な場所となっており、心霊の気配は微塵も感じなかった。祠には小さな陶製の狐が沢山置かれており、参拝者のために賽銭箱と小さな鈴の緒が吊り下げられていた。
ここは歴史が作り上げた心霊スポットだと言えよう。
(藤原真)