信康は武田勝頼との講和を望んでいたともいわれる。武田家が滅びれば、東国で信長に対抗できる大名はいなくなる。ますます強大となる信長に、徳川家も対等な同盟者ではなく臣従を求められるようになるだろう。武田勝頼が健在であるほうが、織田と武田を両天秤にかけて徳川家の立場も強まる…と、信康は考えたのかもしれない。そのため、最前線で武田軍と対峙する浜松城から援軍を求められたときも、信康はこれに応えなかった。
「あのバカ息子めが、何を考えているんだ!」
三方ヶ原合戦で脱糞するほどの恐怖を味わわされ、武田家が憎くてしょうがない家康は苦りきる。戦略方針の違いから父子が憎み合うようになるのは、武田信玄が嫡男・義信を殺した状況とよく似ている。
また、信康と築山殿は、足利将軍家に通じる今川家の血筋を誇りにしていたという。家康にとっては、人質時代に散々屈辱を味わわされた今川家である。忘れたい存在だった。それを鼻にかける妻や息子に好感を持つはずもない。浜松城に本拠を移したときに、信康や築山殿を岡崎城に残したのも、
「ヤツらの顔は見たくない」
そんな意識が働いていたのかもしれない。家康の晩年には信康と同様に六男の松平忠輝を嫌って、臨終間際になっても面会を拒絶。忠輝が駿府に入ることを禁じていた。
「忠輝は恐ろしい面相をしている。三郎(信康)の幼い頃にそっくりだ」
家康がそう語ったと『藩翰譜(はんかんぷ)』にも書かれている。生理的に受けつけられないほどに信康を嫌い、それによく似た忠輝も嫌われたのだろう。そこまで嫌っていれば、もはや親子の情愛もない。信長の疑念をこれ幸いと利用したわけだ。