「ジャックナイフ」。大阪・ミナミにまだ心斎橋2丁目劇場があったころ、千原兄弟の千原浩史(当時)はこう呼ばれていた。一日24時間ずっと、お笑いのことを考え、尖りまくっていたことが、そういわれたゆえんだ。しかし、ほんとうは違う。
中学時代、有名進学校に合格したことが引き金となって、登校拒否、部屋にひきこもり。学校、友だち、家族との関係を絶ち、孤立した。みずから進んだ見えない迷路。ようやく出口が見えてきたとき、相方の兄・千原せいじに誘われて、お笑い芸人の道へ進んだ。もう2度と暗黒のブラックホールに戻らないためには、自身が鋭利なジャックナイフになるしかなかったのだ。
急性肝炎とオートバイの大事故で、2度も生死をさまよった。事故で顔面が破壊したときは、人前に出る仕事をあきらめた。まだ20代。第二の人生は、放送作家と決めた。そんな浩史を再びステージに上げようとしたのは、吉本芸人の面々。板尾創路、東野幸治、今田耕司、松本人志、桂三度(世界のナベアツ改め)などのイキな見舞いによって、励まされ、表舞台に立てるまでになった。千原ジュニアの誕生である。
先輩たちから学んだことのひとつが、借金してでも先輩は後輩におごる。ジュニアは、その教えを忠実に守った。無名であっても、笑いの原石がいればどんどん飲み会に参加させた。テーマは、「最近あったおもしろい話」。飽きると、大喜利。プライベートでも、笑いの身体能力を高めるストイックさは忘れない。さながらお笑い合宿だと、脱落する芸人も出たほどだ。
年に何度も、大好きな宮古島に足を運ぶ。まとまった休みが取れれば、海外にも飛ぶ。誘う作家、貧乏芸人、その家族のぶんまで旅費も負担することも珍しくない。総額がン百万円になっても、番組で話せるネタのためだと割り切る。
いちばん近い側近者であるBコースのタケトが結婚した際には、「大金」、「中ぐらい」、「小額」と書かれた3つの袋を用意して、そのなかから1つを、妻に選ばせた。見事に大金を選び、パーティーは盛りあがったが、妻いわく「袋の厚さが全部同じだったから、全部に大金が入っていた」。
同じく、後輩が結婚報告に来ると、その時点で財布に入っている札束を目の前ですべて渡す。1万円の子、20万円の子。不平等であっても、運を重視するのだ。
そんなジュニアを、芸人のなかの芸人だと崇拝する芸能人は多い。それは、大事故、先輩、そして“残念な兄”が、彼の才能を研磨した結果である。(伊藤由華)