宝塚記念の2週前登録が10日に行われた。俄然注目を集めるのは、ダービーで64年ぶりの牝馬戴冠を成し遂げたウオッカの出否だろう。参戦となれば、歴史を塗り替えた女帝がはたまた大記録を打ち立てるのか…興味は尽きないが、宝塚の季節がくると思い出すのが記録阻止の名ハンター・ライスシャワーだ。
ミホノブルボンの3冠(1992年菊花賞)、そしてメジロマックイーンの天皇賞・春3連覇(93年)をストップさせた希代の名ステイヤーは阪神・淡路大震災に見舞われた95年の宝塚記念、阪神から京都へと代替されたGI3勝の舞台で非業の最期(左第一指関節開放脱臼により、予後不良)を遂げた。その死を偲び、ライスの記念碑は京都競馬場をはじめ、ゆかりの地に点在している。当コラムの初回は、そのライスのデビュー当初について触れてみたい。
ライスがデビューしたのは91年夏の新潟。現在は夏のローカルからクラシックを見据えた距離体系が確立されているが、当時、この時季におろされる新馬は早熟のスプリンターというイメージが否が応でも強かった。その1年後、ライスが“ステイヤー”として大成するとは誰も想像がつかなかったことだろう。
記者もその一人だった。牡馬としては小柄な440kg前後の馬体。いかにも仕上がり早といえる体つきだったライスは調教でも小気味の良いフットワークを見せていた。そして、2番人気に支持された芝1000mの新馬戦で見事に初陣を飾った。58秒6という好時計勝ちに、規定路線の新潟3歳S(芝1200m※現2歳S=芝1600m)への期待は高まった。
鞍上はその年にデビューしたばかりの水野騎手(現調教師)。今にして思えば大変恐縮だが、新潟の天狗山で「おっ、いきなり重賞のチャンスかい」と減量ジョッキーだった彼をチャカしていたことが懐かしい。また、この場を借りて彼にお詫びもしなければならない。水野騎手は新潟3歳Sの1週前に騎乗停止となってしまったのである。記者仲間の間で余計なプレッシャーを与えてしまったのが遠因としてあるのではないかと反省している。
ライスはその3歳Sで菅原泰騎手(現調教師)にバトンタッチ。3番人気に推されるも、出脚がつかず11着に終わる。もっとも、後々分かる適性を踏まえれば、負けるべくして負けたレースだったかもしれない。
交通網が未発達だった当時は直前輸送が当たり前となった現在と違って、滞在馬がほとんど。話は前後するが、3歳Sの中間は飯塚厩舎にはよくオジャマさせてもらった。
「距離適性?ウ〜ン、千八ぐらいまでかな。勝負根性はいいものを持っているから、先々はマイル路線で芽が出ればいいね」
担当の川島文夫厩務員はライスの将来性についてこう語っていた。謙虚な人だっただけに、ホンネはどうだったか分からない。ただ、この時、翌年の菊花賞馬に輝くとは思いもしなかっただろう。ともあれ、この類まれな勝負根性が3000m級の消耗戦で真価を発揮したことはいうまでもない。
「いいかい、皆さん。菊花賞というのは、追ってからグイッと体を沈め、首をうまく使って走る馬が勝つんだよ」菊花賞翌週のことだった。ミホノブルボンを手掛けた故戸山為夫調教師が、まるでライスに敗れるのを察していたかのように、栗東の坂路小屋で囲まれた報道陣に淡々とこう話していたのを思い出す。
美浦トレセンにWコースがやっと完成し、坂路がまだなかった時代。南馬場の大外Dコース(ダート)を外ラチいっぱいに力強く駆け抜ける黒鹿毛の“小さな巨人”は、今もなお脳裏に鮮明に焼きついている。