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プロフェッショナル巧の格言 二美 仁(演歌歌手/刑務所篤志面接委員) 「糟糠の妻と歩む刑務所慰問歌手の花道」(2)

 結婚後の'84年、二美は法務省より北海道樺戸郡月形町にある月形刑務所の篤志面接委員を任命された。その1年後、札幌の地で二美は歌手の道を切り開いたともいえるヒット曲『津軽じょんがら流れ歌』と運命的な出会いは果たしたのだ。

♪津軽じょんがら流れ歌〜
 二美の妻・美喜子さんがママを務める『鹿の園』では毎晩、お客が合唱する『津軽じょんがら〜』の曲が聴こえる。
 筆者が二美と出会ったのも、『津軽じょんがら〜』がきっかけだった。
 この曲は村木賢吉の『おやじの海』の大ヒットで一躍有名になった佐義達雄氏が作曲。東京・赤坂でスナックを経営していた釧路出身の歌手・五郎正宗がレコーディングして全国発売した。

 親しいプロダクションの社長から「五郎正宗が『津軽じょんがら〜』という曲を出す、ヒットは間違いない。しかし、プロモーション費がない。手伝ってくれないか」
 と筆者に依頼がきた。
 レコードを聴いてみるとなかなかいい曲で、新橋の居酒屋で親しくなった飲み仲間で著名なイラストレーターや広告代理店の友人に頼んで、レコードジャケットの作製に協力することになった。しかし、津軽まで行く金がない。そこで波しぶきを上げる津軽の雰囲気を出すため、冬の九十九里海岸に行った。寒い思いをした記憶がある。

 ところが、いざ曲が全国発売になって、キャンペーンという段になったら、金がないのに歌手がこのホテルじゃなければダメだとか、キャンペーンに女性を同伴したことに筆者がキレて、手を引いた。そんなときに、「札幌で『津軽じょんがら〜』をレコーディング。2カ月余りで、約2万枚を売った歌手がいる。会ってみないか」と前述のプロダクション社長に誘われて会ったのが二美仁だった。
 「実は僕も二美の歌を聴くのは初めてだった」と言うのはプロダクション社長。
 「聴いて声質が綺麗で声量がある。ただ、コブシが回りすぎるのは気になるけど『津軽じょんがら〜』にはぴったり。それに、篤志面接委員を任命されるくらいだから、人柄もいい。だから売れたんだろうね」

 その後、二美の『津軽じょんがら〜』は徳間ジャパンから全国発売された。
 「この曲は他にも何人か歌って競作になりましたが、二美の曲が一番ヒットしましたよ。それだけ、彼を支持するファンがいたんです」(有線関係者)

 ファンの中には道内一のタクシー会社を経営するK氏もいた。
 K氏は自分でピアノを弾くほど音楽に造詣が深い。また、K氏の会社は東京にもあったことから、二美はK氏の推薦で、歌手にとって憧れのステージである赤坂の『ニューラテンクォーター』でショーを開くことができた。

 二美の“津軽じょんがら〜”が全国発売された頃、国鉄の民営化が実施され多くの国鉄マンが解雇された。
 「K氏のタクシー会社は解雇された国鉄マンを50人ほど雇用。さらに彼らの第2の人生を励まそうと、大阪有線放送の部長に相談したところ船村徹先生を紹介され、出来上がったのがマーチ風の『男の出発』という国鉄民営化イメージソングだったんです」(二美)

 その後も、二美の歌に対する貪欲さは尽きなかった。
 彼は初の日本レコード大賞を受賞した故・水原弘の『黒い花びら』のB面だった『女の爪あと』のような曲をどうしてもレコーディングしたかった。
 「故・水原弘と親しかった氷川きよしの“育ての親”で、“演歌界のドン”と呼ばれた『長良プロダクション』の故・長良じゅん元会長に伝手を頼って接触したんです」

 故・長良じゅんを札幌に招いたが、急用が入り急遽キャンセルに。代理でやって来たのが“ホタテマン”こと故・安岡力也だった。
 だが、東京・六本木のレコーディングスタジオで『夜の爪あと』をレコーディングした際には、二美の姿を厳しい目で見る長良会長の姿があった。
 「代理できた安岡力也さんから報告を聞いた長良会長はそのあと、スケジュールを作って、水原弘さんの『女の爪あと』を作詞した石本美由紀先生を伴い札幌まで来てくれたんです。その時に出来上がった曲が『夜の爪あと』でした。作曲は弦哲也先生。レコーディングに長良会長が立ち会ってくれたんです。感動しました」

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