羽山隆(期前)。昭和26年5月の後楽園・日本選手権で山本清治(大阪)の2着に入り、近畿ラインを決めた。羽山の特別優参はそれだけだったが、しぶとい追い込み脚は注目されていた。
山下八郎(期前)は昭和28年の競輪祭で優参、昭和36年の名古屋オールスターでは吉田実の2着。石田雄彦や松本勝明(京都)に先着している。枠番制のその頃に1番車だったから、実力は認められていた。
特別競輪優参まではいかなかったが、山本博章(17期)は追い込みではうるさい存在で競り、差しともに一流だった。選手会の支部長も勤めた。
山下八郎の息子・文男(29期)は強豪ぞろいの29期にあって近畿地区期待の星だった。阿部良二(岩手)加藤善行(同)久保千代志(愛知から北海道)加藤功治(三重)ら以上に親譲りの素質は注目されていた。先行、まくりから追い込みとダッシュの良さを活かして昭和49年の競輪祭新人王では渡辺孝夫(大阪)の2着に入っている。
中京大自転車部からプロ入りした渡辺は29期のボス格だったが、山下は近畿ラインで2着に入ったというだけでなく、実力も渡辺と同格だった。その後、故障つづきで引退したのは惜しまれるが、順調にいけば特別のひとつくらいはとっていたかもしれない。