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遠い記憶 根岸競馬場の歴史(9)

 「競走馬=サラブレッド」。今では当たり前となった競走馬の品種だが、果たして明治時代の根岸競馬場では、どのような馬が主に走っていたのだろうか。今回はそれをピックアップしていきたい。
 横浜で競馬、あるいはジムカーナ(Gymkhana=娯楽的競馬)が始まったころは、日本産の馬か外国人が連れてきた中国産馬の馬が大半を占めていた。それも乗馬用とか、馬車用などの馬を思い思いに出走させていた。
 だが、根岸競馬が整備されるにつれ、内国産馬と中国産馬の中から競走馬が選りすぐられるようになり、両馬の優劣論もかしましくなってゆく。一般的に優勢との声が強かったのは中国産馬。しかし、内国産馬は安く入手できることもあり、これを改良向上させてゆく必要論もあった。この間に、洋種馬も徐々に増えていった。
 洋種馬は1877(明治10)年ごろ、米国からサラブレッドの種牡馬が輸入され、優秀な競走馬も産みだされているが、洋種馬の改良が本格的になるのは日清戦争(1894〜95=明治27〜28年)後からである。これには強い軍馬を育てていこうとする国の思惑が背景にあった。

 1895(明治28)年末、日本レースクラブは初めてオーストラリアから、18頭の輸入を試みた。しかし、日本に渡る際に船が暴風雨に遭い、馬は弱り果ててしまい、翌年の春季競馬に出られたのは4頭だけだった。この後、同クラブが本格的にオーストラリア産馬の輸入を始めたのが1899(明治32)年。日露戦争中(1904〜05=明治37〜38年)には軍馬として3700頭もがオーストラリアから輸入された。
 さらに、1900年代に入ると、英国や米国から優秀なサラブレッドの種馬が輸入されるようになった。一方で、この欧米主流の流れが、ある悲劇を招くことにもつながった。これについては次回で紹介していこう。

 ※参考文献…根岸の森の物語(抜粋)/日本レースクラブ五十年史/日本の競馬

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