その頼朝の血脈が「廃嫡」されるまでの過程がかなり悲惨だった。父・頼朝の跡を継いで二代将軍になった頼家だったが、北条氏と比企氏の争いの巻き添えを食らって修善寺に幽閉され、北条氏によって暗殺されてしまう。その後を継いだ実朝も甥に討たれてしまい、頼朝の直系は途絶えてしまう。これ以降は宮家から迎えた傀儡(かいらい)の将軍が鎌倉幕府を運営していく。現在で言うと創業家を追い出した企業の役員たちが、他の企業や官庁からお飾りの社長を迎えながら、会社を経営していくようなものだ。
これら嫡流廃絶の流れの原因は頼朝の突然の死による。1198(建久9)年12月、頼朝は相模川の橋供養に列席した帰路に落馬し、翌年の1月に亡くなったとされている。だが頼朝の死に関して、不可解な点は非常に多いのだ。
鎌倉幕府の正史に『吾妻鏡』という文書がある。同書は頼朝から第6代将軍・宗尊親王までの時代に起こった出来事を記録した、公文書に近いものである。にもかかわらず頼朝の死は、それから13年も経ってから記録されている。その上、頼朝の死後3年間の記録が記述されていない。確かに武士でありながら落馬し、それが原因で死んだというのはあまり褒められたものではない。だが、初代将軍である頼朝の死に13年間も触れないのは不自然ではないか。
実は死因は他にあるのではないかという説がある。脳卒中や糖尿病という説も唱えられているが、単なる病気であったならば隠すことはない。他にも頼朝の浮気に激怒した北条政子が殺害したとか、浮気相手の屋敷で討ち取られたという説もあるが、北条政子が頼朝を愛していたのは事実のようであるし、浮気相手の屋敷に忍んでいくときも側近たちはいたはずである。そうやすやすと討ち取られはしないだろう。
橋供養の際、義経や安徳天皇ら頼朝が殺害してきた人々の亡霊が現れ、驚いた馬が暴走し落馬して死んだという説もある。当時の人々は怨霊を真剣に恐れていたことから考えれば、13年間もその死に触れなかった理由も理解できる。筆者としてはこの説を採用したいところだが、いまいちしっくりこない。
では、なぜ頼朝は死んだのであろうか。筆者が気になるのは、朝廷内で起きていた派閥争いである。親幕派と反幕派が内部抗争を繰り返し、土御門通親が率いる反幕派が勝利しているという事実だ。この連中が怪しくはないか。
土御門家と言えばあの陰陽師・安倍晴明の末裔である。頼朝の不審な事故死と怨霊の噂、そして朝廷で鎌倉幕府に憎悪を燃やす晴明の子孫。「あの安部晴明の子孫だからは何をするか分からない」「平家や義経の怨霊が鎌倉にたたっているのだ」と迷信深い当時の武士たちが震え上がった可能性はある。
ひょっとすると頼朝の死は本当に事故や病気だったのかもしれないし、実際の朝廷勢力や平家の残党による暗殺だった可能性もある。だが、怨霊の噂や土御門の権威を恐れた幕府の幹部たちが、宮将軍を迎えることで朝廷の公家勢力と妥協しようとしたのではないだろうか。
(山口敏太郎)