青線地帯として栄えた繁華街の面影を残す小さな酒場が密集しており、決して環境がいい街ではない。
そんな場所にあった『熊の子』が法政三羽ガラスの溜まり場となっていた。他大学の選手も贔屓にしており、当時の学生野球選手たちが集い、交流し、闘志を燃やし、情報交換もする――そんな店だった。
店はアットホームで、マスターは我々を学生料金で飲ませてくれ、奥さんが作ってくれる家庭料理を目当てに通う選手も多かった。
夫妻には3人の娘さんがおり、温かい家庭的雰囲気をさらに醸し出していた。野球をするために地方から東京に出てきた多くの選手にとって、新宿は敷居が高い街だったが、『熊の子』だけは安心して自由に飲むことができた。
この店に通い始めたきっかけは、法政三羽ガラスの1学年上で明治大の主力だった高田繁(元巨人)と、2学年上だった東都リーグ駒沢大の大下剛史(元広島)だ。ちなみに、大下は同店の長女と結婚している。東京六大学と東都リーグの密かな交流の場でもあった。
法政三羽ガラスが直接のライバルだった明治大の高田やエース・星野仙一と親しくなったのは、互いに門限を破って深夜に出掛けたこの店で顔を会わせていたからだ。
中でも、話が合ったのが“打倒早稲田”に目の色を変えていた星野と富田勝で、2人は“早稲田包囲網”を作ろうと盛り上がった。
すでに東京六大学の大スターだった田淵幸一に対しては、全員が一目置く雰囲気があったが、親友である富田と仲良くなった星野は田淵、浩二とも親しくなり、その付き合いはプロ入り後もずっと続くことになる。
後に星野は「浩二のことはいろいろと助けたよ」とよく私に自慢していた。
「浩二の奥さんは、大学時代に付き合っていた頃から知っているから、夫婦ゲンカをしたときは、よく間に入って仲裁したもんや」
こんなエピソードがある。法政時代、外野手に転向した浩二がレギュラーとして右翼を守るようになると、ライトスタンドには、必ず双子の可愛い女性が観戦するようになっていた。
「おい! ライトにいる2人の女の子、可愛いなあ」
試合中にもかかわらず、目ざとく気づいた富田がそんなことを口にするほどの美女だった。現在の鏡子夫人である。
「トミ、知らんのか。あれは浩二の彼女や」
星野は同じチームの富田も知らないような話まで、浩二から打ち明けられていたのだ。
星野は学生時代から政治家のような一面を持っており、人脈も広かった。だからプロ入り後も、夫婦ゲンカの仲裁から税金対策にいたるまで、何かと仲間たちの相談に乗っていた。そんな付き合いが続いたのも、『熊の子』で結んだ友情の絆があったからだろう。
それぞれの誕生日や優勝祝賀会などの後には、誰と示し合わせたわけでもなく、自然と全員がこの店に集まっていた。「運命のドラフト」の後、この店が法政三羽ガラスらの集合場所になったのも必然だった。
1968年11月12日。東京・日比谷の日生会館で開かれたドラフト会議は、法政三羽ガラスにとって思いもよらない結果となった。
まだドラフト制度が始まって4年目のことである。名実共に球界の盟主を自認していた読売が、ドラフト制度を巧みに利用し、有望選手を独り占めにする駆け引きを自在に操っていた時代だった。
この年はドラフト史上最高ともいわれる大豊作で、阪急は1位指名・山田久志(2位加藤秀司、7位福本豊)、東京オリオンズは1位有藤通世、西鉄は1位東尾修、中日の3位指名は大島康徳と、後に名球界入りを果たす選手がゴロゴロいた。
その中でも、注目を集めていたのが法政三羽ガラスと明治大・星野の4人の動向だった。
各球団の裏の動きを追いかけてきたマスコミの見立てでは、田淵が巨人、浩二は広島、大阪出身の富田は阪神が有力。明治大の星野は中日が指名すると言われていた。ところが、蓋を開けてみると、田淵を指名したのは指名順が早かった阪神。阪神に指名されると信じていた富田は南海だった。
田淵も富田もこの結果にはショックを受けたが、それも当然だった。アマとプロの接触は禁じられていたが、当時は各球団ともあらゆる裏技を駆使して有望選手にアプローチをかけており、三羽ガラスにも幾つも声が掛かっていた。
田淵はすでにこの年の夏頃から、巨人に入団していた高田繁と極秘で会っている。『熊の子』での交遊もある。高田から「会ってくれ」と言われれば、田淵に断ることはできなかった。
違反行為のため、誰にも話すわけにはいかない。高田と食事を約束した日、田淵は当時付き合っていた彼女から「誰に会いに行くの? 私も一緒に連れてって」とせがまれ、ケンカになった。彼女も悪い予感がしたのだろうが、「男の仕事場に行きたいなんて」と田淵は失望し、その日で交際が終わった。私は2人の仲睦まじい関係をよく知っていただけに、破局したのはとても悲しかった。
ともかく、田淵は高田と会い、巨人が希望球団である意思を伝えた。高田が取り持つ形で、当時の川上哲治監督とも極秘に会って食事をしており、川上監督はその席で、「君のために背番号2を用意している」とまで約束したという。
若い田淵が信じたのも無理はない。ドラフト前日には読売系のスポーツ報知が「待ち望む巨人のくじ」と田淵を1面トップで報じ、私も友人としてツーショットで紙面を飾った。それだけ巨人が田淵を単独で指名することは確実視されていた。誰より田淵自身がそう信じて疑わなかった。
にもかかわらず、田淵を強行指名したのは阪神だった。読売のドラフト戦略なのか、まんまと利用された形となった純真な田淵はその夜、荒れ狂った。
当時、私はマスコミ取材などで何かと身辺の騒がしかった田淵を手助けするため、田淵家に泊まり込んでいたのだが、田淵はよほど悔しかったのだろう。夜中になって、こもっていた部屋から出てきた田淵は、フィリピン遠征で買ってきたという宝刀を手にしていた。
「ふざけるな! なんでだ!」
吠えるような怒りの言葉を撒き散らした。そして私を見つけると、いきなり斬りかかってきた。宝刀で斬られた私の額からは血がダラダラと流れた。大暴れして自室に戻った田淵は、開け放った部屋の窓から夜空を見上げ、いつまでも涙ぐんでいた。
田淵の苦しみを思えば、不思議と痛くも痒くもなかった。世の中の汚い部分を見たような気がした。
それから田淵が阪神入りを決断するまで、19日間かかっている。田淵の自宅前には連日、スポーツ紙の記者が張り込んだ。私も池袋の自宅に帰ることができず、田淵家に泊まり続けた。余計なことを話さないよう、田淵の父親もお調子者の私を外に出さなかった。
田淵の父親は毎日新聞系販売会社の会長をしており、読売新聞系の巨人入りを熱望する息子のため、ドラフト前には背広の内ポケットに辞表をしのばせていた。
「幸一が巨人に行くと決めたとき、会社を辞める覚悟はできている」
と話していた。息子の希望を叶えてやりたいという親心が痛いほど私に伝わってきた。社会人野球や海外での浪人を経て巨人入りを貫く選択肢もあったが、田淵は父親が会社を辞めることはどうしても避けたがっていた。
衝撃のドラフトから数日後、新宿の『熊の子』に仲間たちが集合した。
中日に指名された星野が口火を切った。
「実は、巨人からも俺を指名すると言ってきてたんだ。ブチと同じだよ。裏切られた感じだ」
田淵「えっ! 仙ちゃんも巨人から話があったんだ」
星野「それで、ブチは阪神と聞いてどうだった?」
田淵「金槌で頭の後ろから殴られた感じだ。事前のあいさつは一度もなかった球団(阪神)からだからな」
驚く田淵の横で富田がボヤく。
「俺だってあいさつのない南海だ。それに巨人は俺にも同じことを言ってたんだぞ。それにしても、よりによって阪神がブチとはなぁ〜」
「俺だけか、希望球団だったのは…」
広島に指名された浩二が、申し訳なさそうにグラスを傾ける。
どうやら、巨人は田淵だけでなく、星野と富田にも声を掛けていたことになる。
この年のドラフトは予備抽選で指名順を決め、重複指名での抽選がない、早い者勝ちのシステムだった。
実際の指名順は東映、広島、阪神、南海と続き巨人は8番目、中日は10番目だった。巨人は星野にも指名すると言っていたようだが、中日より順番が先の巨人が指名したのは武相高校のエース・島野修だった。
つい半年前までは、まさか『熊の子』でこんな話をすることになるとは、誰ひとり想像もしていなかったに違いない。
その後、浩二はもちろん、星野も富田もプロ入りを決め、田淵も「どこの球団でも、野球ができる幸せを感じなければいけない。親父に会社を辞めさせるわけにはいかないから」と阪神入りを決断した。
もっとも、阪神側は“異例の強行指名”のため、当時の規定である契約金1000万円を大幅に上回る金を田淵に用意していた。どういう名目かは分からないが、実際は手取りで7000万円。阪神のスカウトが田淵の自宅まで現金で持参し手渡している。
後に、三つの銀行に預けに行く際には、私が田淵の母親のボディーガード役として付き添ったことを覚えている。ちなみに、当時の大卒初任給は約3万円という時代だった。
とにかく、田淵は阪神入りを決めた。先に南海入りを快諾していた富田もこの決断を喜び、田淵家を訪ねてきた。田淵を挟んで両親、富田、そして私が笑顔で写る写真はその時のものだ(※本誌198P写真参照)。
残念ながら、富田勝はこの世を去ってしまった。南海に入団したトミと大阪スポニチ記者時代の私はよく難波で朝まで飲み歩いたものだ。血を吐きながらハシゴするトミの姿がいまでも脳裏に焼き付いている。
「だるま! もう1軒行くぞ!」
私は仲間から『だるま』と呼ばれていた。
(了)
【スポーツジャーナリスト:吉見健明】
1946年生まれ。スポーツニッポン新聞社大阪本社報道部(プロ野球担当&副部長)を経てフリーに。法政一高では田淵幸一と正捕手を争い、法政三羽ガラスとは同期で苦楽を共にした。『参謀』(森繁和著、講談社)プロデュース。著書に『ON対決初戦 工藤公康86球にこめた戦い!』(三省堂スポーツソフト)等がある。