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闘将逝く 野球を愛した星野仙一氏の「一世一代の直訴劇」

 闘将・星野仙一が逝った。享年70、その突然の訃報に球界の関係者たちは「早過ぎる」と口を揃えていたが、この2年間は病との戦いでもあったという。
「年末年始は家族でハワイ旅行に行くとし、テレビ番組などの出演は全て断っていました。お元気であれば、2月キャンプに向け、選手を一軍と二軍に振り分ける話し合いが1月半ばに予定されていたので、それが仕事始めになるはずでした」(楽天関係者)
 だが、年末から体調を崩し、ハワイ旅行はキャンセルしていた。2日に容体が急転し、4日午前5時25分、帰らぬ人となってしまった。
 最後に元気な姿を見せたのは、昨年12月1日、大阪市内で行われた自身の「野球殿堂入りを祝う会」だった。
「野球に恋をしてきて良かった。野球のおかげで自分はこんなにも…」
 ソフトバンク・王貞治会長、阪神・金本知憲監督らの球界関係者のほかにも、故人を慕う政財界の要人たち約950名が集まった。彼らの前でそんなことを話していたそうだ。

 監督を務めた中日、阪神、東北楽天の3球団では全て優勝に導いている。最後のユニフォームとなった楽天では悲願の日本一も果たしている。監督通算1181勝は、歴代10位。「強いクローザー」を見出し、先行逃げ切りの采配だった。今日のプロ野球では継投策が重視されるだけに、故人の采配は大きな影響をもたらしたと言っても過言ではないだろう。

「野球を愛していた」という故人の言葉で、こんなエピソードも思い出される。
 故人は北京五輪・野球競技(2008年)で日本代表チームの監督も務めているが、その「愛する」の言葉を実行に移していたのだ。05年10月16日のことだった。中国・上海でIOC・ジャック・ロゲ委員長(当時)とその一行をもてなす船上パーティーが催されていた。同委員長の訪中目的は北京五輪の準備状況を視察だ。パーティーは有力者のご機嫌を取るためでもあったが、故人はあらゆるツテを辿って、その船内にもぐり込んだのである。それだけでも凄い行動力だが、故人の目的はロゲ委員長と話をすること。そして、頃合いを見計らい、同委員長の前に出て、
「オリンピックから野球をなくさないでくれ!」
 と、直訴したのである。

 3か月ほど前の同年7月8日、IOCは総会を開き、12年のロンドン五輪から野球・ソフトボールを公式種目から外すことを決めていた。野球は「北京五輪が最後」となり、それに対する抗議だった。
 パーティーを主催した中国の要人たちは同委員長の機嫌を損ねてはと青ざめたが、闘将と呼ばれた男はひるまなかった。アメリカ、日本で野球がいかに愛され、定着した競技であるかを説明し、「オリンピックの企業スポンサーをもっとも集められる両国の国民をガッカリさせたら、盛り上がらなくなる」とも力説した。
 同委員長は通訳を介してだが、故人の訴えに最後まで耳を傾けていたそうだ。「検討してみる」と回答を得るのと同時に故人は「お願いします!」と頭を下げた。同年10月24日、国際野球連盟(IBAF)が五輪野球サミットを開催したが、故人の行動力が契機になったのか、そこにはNPB要人も駆けつけた。次のIOC総会(次年2月)で「見直しの再提議」がされたが、結果は変わらず、今日に至っている。

 関係者がこう続ける。
「当時の故人の肩書は、阪神タイガースのシニアディレクター。IOC委員長と直接話ができる立場ではありませんでした。でも、野球がオリンピックから消えることを黙って見過ごすことができなかったんでしょう。故人の直訴が、東京五輪の追加種目で野球・ソフトボールが復活した下地になったと思いたい…。追加種目とはいえ、IOCは一度消滅させた野球・ソフトを承認しなかったと思います」
 故人が「五輪最後の野球競技」の日本代表監督に決まったのは、直訴劇から1年余が経過した07年1月だった。北京で金メダルを獲ることができなかった悔しさは、故人がいちばん強く感じていたはずだ。2020年、東京五輪での野球・ソフトは故人の眼にどう映ったのだろうか。

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