2度の指名拒否を経て、2009年ドラフト1位で念願の巨人入りを果たした長野。溢れんばかりのチーム愛を持っていた背番号「7」にとって、今回の移籍は“まさか”の出来事となったことだろう。ただ、過去に巨人の背番号「7」を背負った選手を振り返ると、それぞれが長野と同じように不幸な出来事に見舞われている。
長野の前に背番号「7」を着けていた二岡智宏(1999年〜2008年)は、2008年に山本モナとの不倫が発覚し、同年オフに日本ハムへトレード移籍。その前に着けていた吉村禎章(1986年〜1998年)は、1988年に今も「あれがなければ…」とファンに悔やまれる靱帯断裂の大けがに見舞われている。
強打のスイッチヒッターとして巨人軍第49代4番打者も務めたレジー・スミス(1983年〜1984年)は、1984年にファンと小競り合いを起こして書類送検。また、柴田勲(1970年〜1981年)は現役引退後の1992年に賭博行為で検挙され、桑田武(1969年)はヤクルトアトムズ(現ヤクルト)移籍後の1970年に「黒い霧事件」の一端を担ったとして逮捕されている。
前述の5名以前に背番号「7」を背負った選手は大橋勲(1963年〜1968年)、高林恒夫(1961年〜1962年)、与那嶺要(1951年〜1960年)、山川喜作(1946年〜1951年)、筒井修(1936年〜1937年・1941年)の5名だが、この内大橋、高林、山川はトレードで他チームに放出されている。
また、与那嶺は当時存在した年金の受給資格(10年間の選手登録)を満たす寸前で戦力外通告の憂き目に遭い、中日に移籍。背番号「7」の初代である筒井は、戦地で指を失ったことにより選手生命を絶たれてしまっている。
ラッキーセブンならぬ“アンラッキーセブン”の系譜に、図らずも名を連ねてしまった長野。新天地となる広島の地で、不幸を吹き飛ばすほどの活躍を見せることはできるのだろうか。
文 / 柴田雅人