しかし、実母が事業で忙しい上、体が弱かったため、徳次は2歳になる1カ月前、早川家で働いていた縫い子夫婦の養子となる。養父母は貧しかったが徳次を可愛がって育てている。
徳次の辛い幼少期は最初の養母があっけなく病死し、養父に後妻が来てから始まった。養父の後妻による虐待のため、徳次はいつも空腹を抱え、折檻(せっかん)に怯(おび)える日々を送った。近所の子供が一日中遊び回っているのに、徳次は学齢前から内職をさせられていた。
そんな徳次の身を心配した、近所に住む人の計らいで、徳次は8歳の時に丁稚奉公に出る。奉公の7年7カ月を含め10年あまり修業し、一人前の金属加工職人になった徳次は、親方の元から独立する。
徳次は手先が器用で仕事が早く丁寧だった。また、常に時代の求めているものは何か、お客さんに喜ばれるためにどういう工夫が必要なのかを考え、発明や改良を続ける努力を惜しまなかった。
独立後の事業は順風満帆で、拡大の一途を辿った。妻と二人の息子にも恵まれ、30歳の社長・徳次の前途は洋々たるものであった。
しかし関東大震災は、それらすべてを奪い去る。徳次は、再起するには痛手が大きすぎた。事業と家族を一瞬に失った人間のみじめさ、傷心はとても他人にはわかり得ないところである、と述懐している。しかもこの関東大震災から間もない頃、徳次は契約先からの取立てという追い打ちにあう。東京で生まれ育ち、下町が本拠地だった徳次が大阪へ移住したのは、この取り立てにあったためだった。