ヤクルト球団には腹が立つし、言いたいことはまだあるが、今回のテーマは偉大なV9戦士・高田繁だから、話を変えよう。第3回ドラフト(1967年)の1位が浪商→明大という超エリートコースを歩んできた高田さん。新潟の無名な糸魚川商工を出たオレは10位だ。
入団していきなり新人王、日本シリーズ最高殊勲選手になった高田さんに対し、オレは4年目で新人王。「セキ、お前のは新人王じゃない。インチキ新人賞だ」。高田さんにはいつもこう言われている。当時のドラフト1位は契約金1000万円、年俸180万円。オレは10位だからその10分の1。入団発表も高田さんは1人だけ都内高級ホテルの金屏風の前で、正力亨オーナー立ち会いの元。オレたちは別に十把一絡げ。まあ、プロ野球選手としての貢献度、人気もオレは高田さんの10分の1だったけどね。
監督の川上さんと参謀の牧野さんが、何とか欠点を見つけ出し、二軍に落とそうとしたのだから、高田さんのすごさがわかるだろう。外野のノックを受けても、ノックバットの角度で打球がどこに来るかわかってしまうから、先回りして楽々捕球する。ノッカーは怒る。
「このままだとプロ野球をなめてしまうから、一度二軍生活を味わわせたい」と、川上さんと牧野さんが目を皿のようにしてあら探し。ようやく左翼への飛球を落としたプレーを理由に、念願の二軍落ちさせた。初めて二軍落ちしてきた高田さんに対し、オレも「オイ、ルーキー」と冷やかしていたのに、3日もしないうちに一軍へ上がってしまった。
国松さん(彰氏)だかが、ケガをして外野手が足りなくなり、すぐに高田さんが一軍に呼び戻されたんだよ。天才の上に強運ときた。「ミスターと高田だけは天才だ。川上さんもオレも、何も手を付けていない」と、牧野さんが認めたんだから、正真正銘の天才だね。
レフトへ打球が飛べば、相手打者は二塁打をあきらめる。打球が左翼フェンスに達する前に、高田さんが快足をとばして追いつき、矢のような送球をしてくるからだ。でも、才能だけではないよ。V9時代が終わり、長嶋監督になり、三塁手に転向した時は、多摩川で正月休みもなく、連日、ノックを受けるなど猛練習をした。それで、三塁手としてもゴールドグラブ賞を獲得したからね。
見た目で判断するファンは、高田さんをジェントルマンだと思っているだろうが、とんでもない。あれだけ口の悪い人はいない。幼なじみで結婚した奥さんが「二重人格」と言うのだから、間違いないよ。チームが優勝した時も宿舎で「オイ、タカ、言えよ」と他の選手がけしかける。すると、高田さんは正力亨オーナーに対し、「オーナー、餅代の金一封は出ないんですか」と堂々と直談判するんだよ。人間力をモットーにした御大、明大の島岡さん(吉郎氏)に鍛えられ、しかも一発も殴られなかった伝説の男・高田繁は、V9巨人でも怖い者なしだった。
<関本四十四氏の略歴>
1949年5月1日生まれ。右投、両打。糸魚川商工から1967年ドラフト10位で巨人入り。4年目の71年に新人王獲得で話題に。74年にセ・リーグの最優秀防御率投手のタイトルを獲得する。76年に太平洋クラブ(現西武)に移籍、77年から78年まで大洋(現横浜)でプレー。
引退後は文化放送解説者、テレビ朝日のベンチレポーター。86年から91年まで巨人二軍投手コーチ。92年ラジオ日本解説者。2004 年から05年まで巨人二軍投手コーチ。06年からラジオ日本解説者。球界地獄耳で知られる情報通、歯に着せぬ評論が好評だ。