もちろん、国債発行は別に罪ではない。特に、自国通貨建て国債の発行は、単なる「政府貨幣発行」である。少なくとも現代の管理通貨制度の下では、政府が貨幣を発行しないと経済が成り立たない。
また、いわゆる万年筆マネー(最近はキーストロークマネーと呼ぶが)を発行する信用創造は「money creation」。「The creation」は、「創成」「天地創造」である。緊縮財政の英訳である「austerity」は、一般には厳格、禁欲といった意味もある。
いかがだろうか。財政関連の英語は、宗教色、あるいは道徳色が強いのだ。つまりは、現象の説明ではなく、善悪の表現になっているのである。
反・緊縮財政は、反・禁欲。禁欲の逆は、強欲になる。強欲といえば、キリスト教の「七つの大罪」の一つだ。
改めて日本語を見ると、償還は「償い、還す」であるため、宗教色・道徳色が入っている。「償還」という言葉は、「redemption」の訳として実に適切だ。
緊縮は、「きつく締め、縮ませる」であるため、これは単なる現象の説明であり、宗教色や道徳色はない。が、英語の場合は「強欲の逆(禁欲)」というわけで、善悪の概念が入っている。
さすがに「強欲は善」という主張に賛同する人は、表向きは少ないだろう。
となると、強欲を戒める「austerity(緊縮財政)」は、道徳的に正しいことになってしまう。
緊縮財政は政策でも、理屈でもなく、イデオロギー(主義)なのだ。イデオロギーとは、人間の思考や行動を左右する、根本的な思考体系になる。理屈でも現実でもなく、「正しいから、正しい」というのがイデオロギーの特徴だ。
もちろん、あらゆる人間は特定のイデオロギーと無関係ではいられない。「自分は自由に考えている」と信じている読者も、確実に「特定の枠組み」の中で思考している。
人間が生きていく上で、社会の秩序を維持するための思考の枠組み、規範の一種が宗教であり、道徳だ。七つの大罪が典型だが、「欲してはいけないこと」「欲して構わないこと」をイデオロギーとして規定し、社会の秩序を維持するわけである。
人間が社会的な生命体である以上、社会の秩序を維持するために、何らかの「決まり」は必須だ。代表的な「決まり」が法律になるが、法律に頼らずとも、人々の思考や行動を制御できるのが宗教であり、道徳である。
その人間の思考の枠組みである宗教や道徳と「緊縮財政」が直接的に結びついているとなると、緊縮財政の転換が困難な理由が分かってくる。
「政府が貨幣を発行し、国民の所得(利益)となるように支出する」と言われると、「道徳的」に拒否、反発の思考メカニズムが働いてしまう人が少なくないのだ。特に、「正義感」が強ければ強いほど、「そんな国民を甘やかすことはしてはいけない」と思ってしまうのだろう。
皮肉なことに、国家や社会の「決まり」を嫌い、共同体を破壊し、人間を個別化する「グローバリズム」と、緊縮財政の相性が抜群によい。グローバリストは、あたかも普遍的な善であるかのごとく、緊縮を主張する。結果、公共サービスが切り売りされ、グローバリストが儲かる。
また、グローバリズムの思想的バックボーンである主流派経済学の「経済の管理人」は、もちろん「市場」だが、これをアダム・スミスは『国富論』で「見えざる手」と表現した。
この「見えざる手」に、いつの間にか「神の見えざる手」と、「神」という言葉が入ってしまった。神となると、露骨に宗教的である。
何を言いたいのかといえば、緊縮財政や規制緩和、さらには自由貿易という、特定の誰か(つまりは「自分」)の利益最大化を目指すグローバリストは、人々の「宗教心」や「道徳心」に訴え、目的を達成しようとするという話である。偽善極まりない。
「市場は神の見えざる手が動かしているため、歪めてはならない」
と言われると、普通の人は納得するのだろうが、結果的に多くの国民が貧困化し、特定の誰かだけが儲かる。何しろ、政府の規制等のルールがない状況で、国民が「自由」に競争すれば、確実に「勝ち組が勝つ」のだ。グローバリズムの政策を20年も続けた我が国がどのような社会に変貌を遂げたのか、目の前の現実を見れば分かるだろう。
ちなみに、筆者は別に市場を否定しているわけではない。自己利益最大化のみを追求するグローバリストのレトリックを批判しているにすぎない。市場に任せた方が「経世済民」につながる財やサービスも、それはあるだろう。
あるだろうが、「すべての財やサービスにおいて、市場が常に正しい」などあり得ない。特に、防衛や防災といった安全保障関連は、「市場」に任せることは不可能だ。防衛、防災は「国民を守る」サービスである。そして、市場に国籍はない。国家の概念がない市場において「特定の国民を守る」という発想は存在し得ない。
それにも関わらず「神の見えざる手」という言葉が、あたかも普遍的に正しいかのごときレトリックが使われ、市場が正当化される。
そして、緊縮財政に反対すると、「強欲的」と批判され、道徳的に間違っているという印象を植え付けられる。特に、英語に至っては、言葉そのものがそうなっているわけだから、厄介な話だ。
恐らくこの種の問題は、過去数百年、あるいはそれ以上の期間、人間社会を苦しめてきたのだろう。
「緊縮財政は道徳的に正しい」と主張する緊縮推進派に対しては、
「いや、違う。一見、緊縮財政は禁欲的で、道徳的に正しいように見えるが、実際には『特定の誰か』を富ませるだけで、国民が貧困化し、最終的には経済や共同体が維持できなくなる」
と、正しく構造を説明しなければならないわけだ。
禁欲は個人の道徳として正しいのかも知れないが、「国民がみんなで豊かになる」も、間違いなく道徳的に正しい。道徳的に正しい経済は、少なくとも現在の日本では「緊縮財政ではない」という現実を広める必要がある。
********************************************
みつはし たかあき(経済評論家・作家)
1969年、熊本県生まれ。外資系企業を経て、中小企業診断士として独立。現在、気鋭の経済評論家として、分かりやすい経済評論が人気を集めている。