木内監督といえば、「マジック」と称される大胆な采配で知られるが、教え子たちは違う印象を持っていたようである。
「一緒に野球をしている側にすれば、何がマジックなのかよく分かりませんでした(笑)。マスコミの皆さんが勝手に『木内マジック』と呼んでいただけで…」
取手二、常総の何人かの教え子に話を聞いてみたが、当時をそう振り返っていた。
「マジック」には“タネ”があるようだ。
桑田、清原のいたPL学園との決勝戦を征した1984年・夏の甲子園大会もそうだった。9回裏、同点に追い付かれ、動揺するエース・石田文樹をいったん、右翼守備にまわし、2ケタの背番号を付けた柏葉勝己をマウンドに送った。ひと呼吸置かせ、石田を再びマウンドへ。この大胆不敵なワンポイント・リリーフと、控え投手の投入に高校野球ファンは驚かされたが、当時を知る教え子の1人は「大会前、石田は故障していた」と明かし、木内監督は練習試合で柏葉や他の控え投手をテストしていたという。「一打サヨナラ負け」という窮地ではあったが、柏葉の努力を目の当たりにしてきた取手二ナインにすれば、「柏葉の救援に違和感は全くなかった」のだそうだ。
「茨城県大会が始まる前、実はPLと練習試合をして、ボロ負けしたんです。試合後、石田が『逃げのピッチングをした。逃げるな』と叱られたんです。その石田がマウンドに再び立ったとき、清原のインコースをどんどん攻めて…」
常総学院に移ってからも、“マジックのタネ”を蒔いてから、公式戦に臨んでいた。
木内監督は茨城県予選の試合日程を逆算し、尻上がりに調子を上げていこうとする。だが、部員たちのモチベーションが上がらない年、校内テストの期間にリフレッシュ休暇を与えたという。その休暇明けの練習初日だった。部員たちを前に「休んでいいと言ったのは、レギュラーだけ。補欠が休むとは…。補欠は辞めちまえ!」と怒鳴りつけたそうだ。
本心ではない。控え選手たちは「監督を見返してやる」と必死になり、レギュラー陣も安穏としていられなくなった。
当時の部員の1人は「自分たちは木内監督に試されていたと思う」と、振り返っていた。
「もし、ここでやる気を見せ、緊張感のある練習ができなければ、県予選で負けていたと思います」
控え選手が必死になれば、自ずとチームのレベルは底上げされる。今夏もそうだったが、ベンチ入りしたメンバーのほとんどを起用する采配もみせる。観ている側には「驚きの采配」(=マジック)でも、部員たちに動揺はない。むしろ、「努力すればいつか報われる」と知ったのではないだろうか。
一昨年夏、筆者は別件で常総学院に立ち寄った。野球部のグラウンドに眼が行ったが、木内監督の姿を見つけることはできなかった。近くにいた学校職員は、バックネット裏の小さな控え室が木内監督のいつもの居場所だと教えてくれ、「ご高齢ですし、締めるところはしっかり締めていらっしゃるんじゃないですか」とも語っていた。一部報道によれば、健康診断とはいえ、昨今は病院に向かうことも多かったという。
27日の敗戦後、木内監督は「年だから」「時代が変わった」「新しい野球スタイルが…」と歳月の流れも口にしていた。しかし、教え子たちが恩師・木内監督を慕う気持ちは永遠に色褪せないのである。(一部敬称略/スポーツライター・飯山満)