しかし、ここで大事なことは「首相の器ではなかった」と言われた森が、それではなぜその座を射止めることができたのかにある。
森は「森一族」といわれた石川県南加賀地方の旧家の生まれで、父親は6期も町長を務めている。言うなら、辛酸をなめた青少年時代を過ごした経験もなく、がつがつしたところのない伸び伸び育った“お坊ちゃん”的体質であった。学業成績も抜群ということでもなく、入った早稲田大学では高校時代から続けていたラグビー部に入った。しかし、早大ラグビー部では入部わずか4カ月で胃カタルを患い、ラグビーを断念、雄弁会に入っている。
森が雄弁会3年のとき、小渕恵三元首相が入会してきた。やがて歳月が流れ、首相だった小渕が病に倒れ小渕と雄弁会でのよしみもあり、雄弁会OBのボス的存在、青木幹雄官房長官(当時)らの後押しもあって、小渕の後継首相に推挙されたということだった。つまり、ある意味で“ラッキー”な首相就任ということだ。
そこで、表記の森の言葉、人生観が浮かび上がるのである。森は時に、よくこう言っていた。
「人生はラグビーのボールそのものだ。そうした教訓をラグビーから得た。リバウンドした楕円形のボールは、予期せぬとんでもない方向に転々とする。リバウンドしたボールが自分の手元に返る確率は、百分の一以下ともいわれる。人生がどのように展開していくか、分からないのに似ているということだ。そんなことからも、政治家としての自分は少なくとも無理は一切せず、流れのまま“自然体”を通している」と。
なるほど、国会議員となった森は損な役回りの連続であった。政治家というのは、ある程度オレがオレがの意欲を示さないと望んだポストには座れない。しかし、損な役回りをコツコツこなしているうちに文部、通産、建設の各大臣ポストが回り、村山富市政権では野党自民党の幹事長、やがては小渕恵三政権で政権政党ナンバー2の幹事長ポストをこなすに至っている。
ちなみに、戦後首相の中で自民党3役、すなわち幹事長、総務会長、政調会長のいずれも経験している人物は、森を置いて一人もいない。森と親しかった自民党ベテラン議員の、次のような証言が残っている。
「結局、小渕恵三同様、敵をつくらない人柄が森を“ポスト小渕”へと押し上げた。小渕が病に倒れたあとの自民党は大混乱だったが、案外こうしたときに“漁夫の利”をつかむのは、森のような下手な定見を持たぬ自然体の人物になることを証明した」
森は福田赳夫元首相、現在の安倍晋三首相の父親の安倍晋太郎元官房長官の福田派、安倍派の流れに所属していた。安倍が病に倒れたあと安倍派の後継争いが、時の派閥の最高幹部だった三塚博元大蔵大臣と森の間で演じられそうになった。このときも、森は近い将来の天下取りに野心の強かった三塚に「お先にどうぞ」で、いとも簡単に会長ポストを譲ってしまった。その後、三塚は首相の座から遠ざかり、結局は恬淡としていた森が首相のイスの“白矢”を射止めることになったのである。
もとより、一般社会でも人生は望んだようにはいかない。まさに、森の言う「リバウンド確率」の中にある。最近は東京五輪・パラリンピックの新国立競技場建設に絡んで組織委員会会長として悪戦苦闘の森だが、首相をやり、人生の晩節になお五輪という国際的な“大祭典”のキーマン・ポストにあるのも、ある種こうした恬淡とした人生観の賜と言っていいのである。森のような考え方で運命にたゆとうのも、一つの生き方と言える。=敬称略=
■森喜朗=文部大臣(第105代)、通商産業大臣(第56代)、建設大臣(第62代)、内閣総理大臣(第85・86代)などを歴任。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長、日本ラグビーフットボール協会名誉会長。
小林吉弥(こばやしきちや)
永田町取材歴46年のベテラン政治評論家。この間、佐藤栄作内閣以降の大物議員に多数接触する一方、抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書多数。