毎年1万頭前後の馬が生産され、彼らの夢が濃縮される舞台。18しかないゲートを目指して厳しいサバイバルが繰り広げられるなか、アドマイヤベガほどダービー馬になることを宿命づけられた馬はいないだろう。
父は当時、最盛期を迎えていた不世出の大種牡馬サンデーサイレンス。母は桜花賞、オークスの2冠馬ベガ。所属したのは、サイレンススズカで一世を風靡(ふうび)した橋田厩舎だ。そして鞍上には武豊がいる。オーナーの近藤利一氏はこの馬を手に入れた時、すでにダービーは夢ではなく、手の届く目標としてとらえていたのではないだろうか。
だが、その道のりは連戦連勝とはいかなかった。楽勝かと思われた新馬戦は1着入線→4着降着。続くエリカ賞、ラジオたんぱ杯3歳S(現NIKKEI杯2歳S)を連覇して一気にクラシックの最有力候補に浮上したが、年明け初戦の弥生賞は道悪で2着。皐月賞はマイナス12キロの馬体が影響して6着に惨敗した。
そんな状況で迎えた1999年日本ダービーは、皐月賞馬テイエムオペラオー、同3着ナリタトップロードとの3強対決と騒がれた。潜在能力では文句なしのナンバーワンと評価されたベガだが、強さとモロさが同居したレースぶり、また前走で減った馬体重に対する不安もあり、1番人気はトップロードに譲り、2番人気に甘んじた。
だが、アドマイヤベガのDNAには、宿命がはっきり刻み込まれていた。10キロ増と立て直された馬体には、活力がみなぎっていた。道中はライバル2頭を前に置き、じっくり後方を追走。直線で外に出すとすさまじい瞬発力を発揮し、6年前、母がオークスを圧勝した舞台で頂点を極めた。父にとってはタヤスツヨシ、スペシャルウィークに続く3頭目のダービー馬となった。
鞍上・武豊の好騎乗も光った。トップロードの渡辺、オペラオーの和田は当時、ともに経験の浅い若手でダービーのゴールを目前に勝ちを急いだ。その点、武豊はギリギリまで追い出しを我慢した。前年、スペシャルウィークで念願のダービー初制覇。あれで勝ち方をしっかりつかんだのだろう。アドマイヤベガの天才的な切れ味を、天才が見事に引き出した一戦だった。