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大原麗子【享年】62【死亡年】2009年 難病再発の上、脳内出血。死後2週間も発見されず…(他)

 60年代から女優として活動。妖艶な美貌と独特の甘ったるい声が特徴で、彼女のモノマネはかつて明石家さんまの持ちネタだった。90年代までは毎年のようにドラマ出演を行っていたが、00年代から加齢などを理由に仕事が減少。本人が手足の運動機能が失われる「ギラン・バレー症候群」の再発を訴え芸能活動を休止したことも重なり、徐々に表舞台から姿を消していった。そして2009年8月、実弟が自宅で一人死亡している大原を発見する。死因は脳内出血で、発見時は死後2週間以上が経過した状態だった。生前の大原は女優としてのプライドが高く、年々仕事が減少していく屈辱から晩年はうつ状態だったと言われている。ギラン・バレー症候群も通常は再発する病気ではなく、彼女の訴えは世間から衰えた自分の姿を隠すための言い訳ではないかとも噂された。最後まで自らが女優であることにこだわった大原。実弟いわく彼女の遺体は、まるで生きているかのように美しかったという。

白暁燕(パイ・シャオエン)【享年】16【死亡年】1997年
誘拐事件の対応を間違え、暴行死の憂き目に!

『巨人の星』などで知られる劇画原作者・梶原一騎と台湾人女優との間に生まれた白暁燕。自身も台湾でタレント活動をしていたが、1997年4月に身代金目的の誘拐事件に巻き込まれる。だが、身代金受け渡しに失敗したことを機に犯人たちの行動が激化し、白の小指を切断して自宅に送るなどの凶行に及んだ。その後、犯人のアジトが発見され、そこで彼女の遺体が見つかったが、その遺体は両手両足の爪がすべて剥がされ、子宮内に釘が48本も入れられ、何度も繰り返された強姦や暴行の痕跡が色濃く残されていた。この事件は台湾中を震撼させ、李登輝総統(当時)が自ら犯人たちの殺害を指示。その後、射殺や刑罰などにより彼らは全員死亡した。白の父親の梶原一騎は、自身が手がけた劇画のような波瀾万丈の人生を送った人物だが、彼女自身も悪い意味で父と同じような運命をたどってしまった。なお身代金受け渡しが失敗した理由の一つは、マスコミの過剰な報道だった。皮肉にも白は、自身の活躍の場であったメディアに命を奪われたのだ。

本田美奈子【享年】38【死亡年】2005年
白血病で衰えゆく姿が克明にお茶の間に!

 1985年にアイドル歌手として華々しくデビューし、90年代からはミュージカルなどにも活動の場を広げた。04年から高熱を発するなど体調を崩すことが多くなり、05年に白血病をわずらっていたことが判明する。その後は治療を行うも、悲運にも本田が発症した白血病は極めて治療が難しいタイプのものだった。闘病生活では、抗がん剤の影響でのどの奥まで炎症が発生し、水を飲むことすら苦しい状態だった。その様子は連日メディアで報道され、痩せ衰え、髪が抜け落ちた姿は多くの人々に悲痛を感じさせた。しかし、衰弱していく中でも本田は明るくふるまい、偶然にも同じ病院に入院していた恩師の作詞家・岩谷時子に対し、彼女の回復を願って歌い続けたという。最後まで自らの回復を信じ続けた本田だが、入院から10カ月後の05年11月に死去。だが死の直前、本田は白血病患者支援のための団体を設立しており、08年には岩谷に捧げた歌がCD化するなど、彼女は死後もなお活躍し続けている。

林家小染【享年】36【死亡年】1984年
ある意味で噺家としての使命を全うした人生!

 大阪出身の落語家で、若手時代は月亭八方、桂文珍らと「ザ・パンダ」というユニットを組み人気を博した。噺家としての実力も高く、将来の大看板を期待されていたが、反面、酒ぐせが悪いという一面を持っていた。1984年1月、泥酔して街をさまよっていた小染は、突如として車道に飛び出してトラックに轢かれ、その2日後にこの世を去った。当時、小染と親しかった笑福亭鶴瓶によると、彼は「トラックと相撲をとる」と言い残し車道に飛び出したという。あまりにも愚かな行動が招いた死だが、「芸を行う」という落語家の役割を、文字通り命をかけて全うしたとも言えるかもしれない。その後に小染の幽霊を見たという目撃談が、生前の彼と親交のあった人々から続出した。

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