ために、かつての田中派には単に委員会の出席要員にとどまるような“駄馬”はほとんど存在せず、一騎当千、どこへ出しても通用するような人材がひしめいていた。田中は人材発掘、育成の名手だったということである。言うなら、田中派は「田中角栄学校」でもあった。
その門下生からは、竹下登、羽田孜、橋本龍太郎、小渕恵三、そして“外様”的存在で田中の影響を受けた麻生太郎と5人の首相を誕生させている。こうしたことは田中の師匠格にあたり、池田勇人、佐藤栄作といった両首相を門下から送り出した、かの吉田茂も遠く及ばないものであった。
また、首相経験者以外にも、当初は度胸とハッタリが先行、しかし、徐々に「調整役」としての重みを加えていった金丸信・元自民党副総裁、あるいは「剛腕」として混迷する政局に大ナタを振るい続けた小沢一郎(現・国民民主党)など、まさに「田中角栄学校」は多士済々であった。今年、御年81になり、現在なお老練な党運営を駆使している二階俊博幹事長も、田中の一挙手一投足を見て育ち、その手法をわがものにした人物である。
そうした門下生の一人が、梶山静六(現・経産大臣の梶山弘志の父)である。時に、権力の絶頂にあって怖いものなしの田中は、こう唸ったことがある。
「ワシの寝首をかく奴がいるとしたら、それは梶山を置いてない。ワシが発掘した男だけのことはある」
梶山は陸軍航空士官学校を出て、戦後29歳で茨城県議会議員に初当選、40歳の若さで与野党の利害が衝突する県議会の議長ポストをこなしていた。その梶山に目をつけ、国政に引っ張り出したのが田中だった。
時に田中は佐藤(栄作)政権下での自民党幹事長で、近い将来の天下取りを期し、有能な手兵を物色していたさなかだった。田中は首相の座に就くと、警察庁長官を退官したばかりの後藤田正晴に目をつけ、第1次内閣で首相への登龍門ともされる官房副長官のポストに就けた。梶山もまた、有能な手兵としてそのポストに就けたのである。
田中の梶山を見る目は、間違っていなかった。梶山は官房副長官となるや、直ちに田中の期待に応えてみせた。その頃はまだ自民、社会の両党がしばしば激突する55年体制下で、政府・自民党としては“社会党対策”が最大の難問だった。当時の官邸詰めの記者の話が残っている。
「梶山は一連の難しい野党対策を、田中の了解などは取らず、次々に自らの判断で前へ進めていった。田中による『ワシの寝首を…』の言葉は、こうした手腕を見てのそれだった。一方の官房副長官だった後藤田は、梶山の野党対策に対し、各省庁、官僚ににらみを利かせる役割で、田中政権の政策遂行はこの二人の“陰の力”によるところが大きかった」
★「細心と大胆」の戦略
こうして梶山は、その後、なるほど田中の炯眼どおりの成長を見せた。竹下内閣で自治大臣、宇野(宗佑)内閣で通産大臣、第2次海部(俊樹)内閣では法務大臣を経たあと自民党幹事長、橋本内閣では官房長官を務めたといった具合である。田中ならずとも、歴代内閣が使いたがるほどの能力の持ち主だったということである。
その梶山の政治手法の根幹を成したのは、練りに練り上げた緻密な戦略にあった。野党対策ひとつにしても、単なる手練手管ではなかった。梶山と親しかった政治部記者が、その手法をこう明かしてくれたことがある。
「梶山の手法は、いかにも陸軍航空士官学校出らしく、細心と大胆が常に背中合わせというのが特色だった。一方、梶山には『工程表』という異名があったくらいだから、事に取りかかるときは、まず何通りもの戦術を描き出し、その中からそのときの状況に当てはめて行動を起こしていた。
夜、布団に入っているときでも、枕元に鉛筆とメモ用紙を置いておき、アイデアが浮かぶとすぐ走り書きをするのを常としていた。細心と大胆が巧みに機能した、有数の戦略政治家と言ってよかった」
そうした“手法”は田中とそっくり同じだった。枕元に赤鉛筆と『国会便覧』を置き、政策、政党への対応を練っていたのである。
ここに、共に人一倍の努力家だったことが浮かび上がる。努力する人間が人より一歩前に出るのは、いつの世でも変わらないということである。
「戦略家」としての梶山がさらにその凄腕を見せるのは、田中が病魔に倒れ、事実上、政治生命を失ってから後であった。
(本文中敬称略/この項つづく)
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【著者】=早大卒。永田町取材49年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。