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遠い記憶 根岸競馬場の歴史(22)

 太平洋戦争のさなか、根岸競馬場のある山手の丘陵地域は横須賀軍港の動きが一望される防諜上の危険があった。また、海軍としても通信等の作戦上必要な格好の場所であるということから、接収話が持ち上がった。

 農林省馬政局と日本海軍が相談した結果、(1)根岸の競馬場施設は合宿所、厩舎、倉庫など一部を海軍側の責任でほかの競馬場へ移築するほかはすべて海軍が買収すること(2)競馬場の代地は地上物件を含めて海軍側の力で買収すること(3)競馬場関係者の85世帯262人の移転費は海軍が補償すること…などを海軍省に求めた。
 これに対して海軍は、土地(約31万550平方メートル)約205万550円、建物、付帯施設約406万円、移転保証約378万円を支払った。
 こうして、1943(昭和18)年6月10日、根岸競馬場は閉幕式を行い、関係者262人と所属馬105頭は東京、中山両競馬場へ移っていった。
 1945(昭和20)年5月29日の米軍による横浜大空襲では、市内一円から一斉に上がる白煙の中に根岸の競馬場の楕円形がくっきり浮かび出ているのが、米軍機による航空写真でとらえられている。敗戦を迎えて、旧日本軍施設の関係から、根岸の競馬場は進駐軍に占領され、米第8軍の管理下に入った。
 戦時中、競馬施設の一部を日本競馬会から買収し、所有権を持っていた横浜の印刷業者の文寿堂はそのまま進駐軍の印刷業務を引き受ける形となった。ただ、旧日本海軍時代のような専属業者としてではなく、外部の出版社などの印刷も受注していた。
 ※参考文献…根岸の森の物語(抜粋)/日本レースクラブ五十年史/日本の競馬

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