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競輪人国記 岐阜(2) 特別制覇の夢はついにかなわなかった竹内久人

 竹内久人は37期の在校成績こそ島本元視(福井)にナンバー・ワンの座を譲ったが、卒業記念は同県の上床幸治とともに1、2着を決めた。男らしい顔つきで、あたかも古武士の威風があった。

 デビューは昭和51年5月。その5年後の56年には千葉・日本選手権で優参、同年の立川オールスターでも優参した。日本選手権では翌57年大垣、58年前橋と3年連続して優参、この前橋では石川浩史(愛知)の先行について絶好の2番手を回った。
 まくりのある竹内にとって、この時が特別制覇の絶好のチャンスだったが、手の内を読んだ中野浩一(福岡)が早めに仕掛け井上茂徳(佐賀)を引きつれ石川をまくった。中野は井上に先行有利の前橋(ドーム改装前)で寸前追い込まれて2着、インに詰まった竹内は4着に終わった。
 特別の優参は昭和58年の高松宮杯、59年の西宮オールスターなど10回を数える。60年には新設された前橋全日本選抜でも優参した。さらにGIIでは昭和63年平塚共同通信社杯、36歳で優参したが、特別制覇の夢は果たせなかった。
 平成13年には長男の公亮が86期でデビュー。コーチ役に回りながらS級戦ではマーク差しで「いぶし銀」の魅力を見せた。
 息子は現在S2班だが、最近は強烈なまくり脚を身につけ、今後の活躍が期待できる。
 話は戻る。須田一二三(16期)は先行まくりで活躍した。昭和43年の後楽園最後の日本選手権は10車立てで行われたが、吉川多喜夫(神奈川)の4着。49年の西武園・日本選手権、翌50年、あの高橋健二が勝った千葉・日本選手権では高橋の番手を回りながらインから飛びついて来た福島正幸(群馬)との競り合いで脚を使い、直線いっぱいになって4着に落ちた。
 上半身の長い競輪選手向きの体型だ。もしも現在のように岐阜の追い込みが先行に恵まれる組み合わせだったら、須田にもチャンスはめぐって来たことだろう。今でも岐阜と三重が仲良く連係するのは、須田が三重から岐阜に移り、中部の連係にアドバイスをしたからとも言われている。
 鉄壁の中部ラインをつくりあげた選手といえば59期の浜口高彰だろう。同期の小橋正義(新潟)は在校成績3位の実力そのままに成長、井上茂徳の薫陶もあって平成3年の競輪祭で神山雄一郎(栃木)を抑えて優勝。当時、岡山籍だった小橋は2着に同県の先輩・松枝義幸を連れ込む豪脚ぶりを見せている。
 一方の浜口といえば、昭和62年6月のデビュー戦福井では(8)(7)(8)。続く熊本も(6)失(1)と芳しくないスタートを切ったあと、翌年1月の甲子園(1)(1)(1)、平成元年には地元岐阜でS級3連勝とようやく成績を上げただけだった。

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