JR鎌倉駅から、大仏様がある高徳院へ歩くと、道ばたに大木があった。枝振りが見事。幹も太い。木の隣に庚申塚が建っていた。木の周りには民間信仰の石碑も集められていた。
大木に寄り添うようにして「盛久頸座(もりひさくびのざ)」という、大正8年に建てられた碑が残っていた。碑文で、平家物語の中のエピソードが紹介されている。平家の家人である主馬八郎左衛門盛久が、鎌倉の正面に広がっている由比が浜の海岸で斬首されることになった。しかし、「不思議の示現ありて」赦されたとのこと。
「盛久頸座」の隣に、謡曲史跡保存会による碑があった。こちらに詳細が記載されている。鎌倉に送られた平盛久は首を切られることになったが、厚く京都清水寺の観世音菩薩を信仰していた。盛久は、処刑前夜に観音様の夢を見た。すると、当日、持っていた経巻が光を発し処刑人の刀を折った。その話を聞いた源頼朝が、「自分も同じ夢を見た、観世音のお告げである」と助命し、盛久に舞を所望したという。
平家物語には、生死に関わる逸話が多く残されている。有名なのは、織田信長が好んで舞った「敦盛(あつもり)」。源平の戦い隋一の要塞戦となった「一の谷の戦い」は、平家が万全に守っていたが、頼朝の弟・義経の奇襲攻撃により勝敗が決した。戦いに参加していた熊谷直実は、平家方が停泊する船団に逃げ込むとみて、渚へ向かった。熊谷は、馬を海に入れている一騎を見つけた。みぐるしくも敵に背中を見せるなと扇を開いて招く。平敦盛が応じた。しかし、対峙した熊谷が見たのは、17歳の少年の姿であった。当日朝の戦いで自分の息子が負傷していた熊谷は、敦盛を逃がそうとする。が、振り向くと、友軍の50騎ばかりが駆けつけていた。自分が見逃してもいずれ誰かに捕まる、そう思った熊谷は敦盛の首をはねた。敦盛の鎧を解くと、錦の袋に笛が入っていたという。
敦盛の兄経正(つねまさ)も誉れ高き武人であった。経正は、都落ちのさい、暇乞いのため仁和寺に立ち寄った。琵琶の名器「青山(せいざん)」を、「田舎の塵になさん事の口惜しゅう」と置いていった。経正がかつて宇佐八幡宮の神前で琵琶の秘曲を披露したときは、神官たちがみな袖をしぼったという。経正は一の谷で戦死している。
経正と同じく一の谷で命を落とした平忠度(ただのり)は、武人であり、歌人であった。勅撰和歌集である『千載和歌集』には、忠度の歌が、詠み人知らずとして、一首だけ載せられている。(竹内みちまろ)