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次代の貧乏芸人

 ハーフや2世タレント、高学歴やオネェ枠と肩を並べて、バラエティ番組でマストなのは貧乏。麒麟・田村裕が書いた自伝『ホームレス中学生』がミリオンヒットになって以降、芸能界は幼少期が貧乏だった芸能人を血眼で探している。無名ながらも、まさにその枠で開花したのは、タモンズ・大波康平だ。

 母は、「お父さんを探しに行く」という捨て台詞を残して、幼いころに蒸発。そこから、祖母の年金暮らしが始まったが、姉との家族3人が暮らすに十分な生活費はなく、貧乏生活を強いられた。服は、学校の半袖半ズボンの体操着1着のみ。カバンはランドセルのみ。靴は、ギリギリ歩けるレベル。

 学校の遠足で、山登りに行くことになったとき。祖母が「この格好で行って」と差し出したのは、カバン代わりのクーラーボックスと、靴代わりのゴムの長靴。集合写真を見ると、場所は山登りなのに、大波だけが海に行く格好をしていたため、「釣り人」というあだ名をつけられた。

 ツラかったのは、冬場。半袖短パンで過ごすにも限界があったため、寒い日は、長袖の体操着に半袖の体操着を重ねるという工夫を凝らした。それでも寒いときは、祖母が「これを着ていけ」と、部屋のカーテンをおもむろに引きちぎり、コートのようにはおらせた。すると、社会の教科書に出てきたチリの民族衣装のポンチョにそっくり。以来、あだなが「ポンチョ」になり、貧乏すぎて1年で2回もあだ名が変わった。

 こんな子ども2人を育てた祖母は、豪快そのもの。ファミコンが流行ると、段ボールでコントローラーを作ってくれたり、家族参加型のクリスマスパーティーでは、赤いものを身に付ければいいという固定観念から、広島カープのキャップをかぶって出席して、大のカープファンと思われたり。笑える貧乏だった。

 ちなみに、子どもを置いて出て行っていた母は、中学1年生のときに、医者の男を連れて戻ってきた。それがのちの父となり、以降は裕福な生活に一変したという、オチまでしっかりついている大波の鉄板トークは、先輩芸人も大好物のようだ。

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