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プロフェッショナル巧の格言 二美 仁(演歌歌手/刑務所篤志面接委員) 「糟糠の妻と歩む刑務所慰問歌手の花道」(1)

 「人間は常に塀の上を歩いているんです。僕もそうです。ただ表に落ちるか、塀の中に落ちるかの違いでしかないのです。一日も早い社会復帰を望みます」

 刑務所の受刑者に更生を呼びかけるのは札幌在住の演歌歌手で、刑務所の篤志面接員を務める二美仁だ。
 「僕は1984年に法務省から北海道の空知管内月形刑務所の篤志面接員の任命を受けて、日本で初めて刑務所でカラオケ教室を開き、以来、30年にわたって道内3カ所の刑務所で歌唱指導を通じて、受刑者の更生教育に努めてきました。教室の帰りには必ず、更生の話をして帰るんです」

 二美は昨年4月29日に刑務所の篤志面接委員の職務を遂行した功績が認められて、天皇陛下より藍綬褒章を受章した。
 「これも、陰で僕を支えてくれた妻のお蔭です」

 二美の人生は糟糠の妻の美喜子さんに支えられてきたと言っても過言ではない。
 「東京の芸能プロに騙され、流れ流れて、たどり着いたのが札幌。そこで出会ったのは当時、ススキノのクラブのNo.1ホステスだった女房です。僕が今あるのは女房、美喜子のお蔭です」

 二美の出身地は北海道とは正反対の宮崎県だ。実家は宮崎県内では有名な料理屋だった。
 「老舗料理屋の次男として生まれたんですが、はじめは歌手ではなく、プロ野球選手を目指して、中学3年まで野球に専念していたんです。しかし、無理だと断念。歌手の道を選んで上京しました」

 二美は'67年にコロムビアレコードから念願のデビューを果たした。と言っても、コロムビアという社名を付けるだけの歌手だった。
 「レコード会社をあげて応援してくれるわけではなく、自主製作で自ら営業して売り歩く。今でもそうですが、当時はそんな歌手がゴロゴロいました。中には“オレが売り出してやる”と言って法外なマネジメント料を取る詐欺師みたいな芸能ブローカーが何人もいました」(元音楽プロデューサー)

 二美もまた、芸能ブローカーのような人物に騙された一人だった。
 「実家の料理屋を手放さなければいけないほど騙されました。父にはすまないと思う気持ちで一杯でした」

 父親の唯一の趣味はバイク。二美が歌手として一人立ちしたときに超高級バイク『ハーレーダビットソン』をプレゼントしたと言う。
 「親不孝ばかりしてきただけに、親父がハーレーに乗って嬉しそうにした顔は、今でも忘れられません」

 東京に失望した二美は単身、札幌に。そこで出会ったのが妻の美喜子さんだ。
 「二美と結婚した美喜子さんはホステスを辞めてススキノにサパークラブ『鹿の園』をオープン。店は札幌に単身赴任しているサラリーマン、いわゆる“札チャン族”で大流行したんです」

 と言うのは常連のマスコミ関係者。
 「ママの魅力に惹かれて集まったお客が、二美の歌唱力に取りつかれてファンになった。お客の中には上場企業の役員や、道内で顔が利く有力者もいた。ママの人脈で心強いファンクラブ(後援会)ができたんです」

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