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社会 2015年07月31日 10時00分
市場縮小が止まらない… ビール業界“夏の陣”の壮絶
ビール、発泡酒、第3のビールなどビール類の市場縮小が止まらない。 大手各社が発表した今年上半期(1〜6月)の国内総出荷量(課税済み)は前年比0.6%減の1億9575万ケース(1ケースは大瓶20本換算)となり、上半期としては3年連続で過去最低を更新した。ピーク時だった1994年の上半期に比べると、市場規模は約25%も減っている。若者のビール離れ、少子高齢化と、まさに逆風真っ只中だ。 そんな中、関係者が目を剥いたのが昨年まで“独り負け”の烙印を押されていたキリンビールの大健闘だ。出荷量は前年比2.2%増となり、アサヒ(0.5%減)、サントリー(0.7%減)、サッポロ(7.9%減)などライバルの苦戦を尻目に大手で唯一プラスを達成した。同社にとって出荷増は6年ぶり。主力のビールに限ると、実に19年ぶりの快挙である。 結果、キリンの市場シェアは0.9ポイント増の34.0%となり、シェアが横ばいだったアサヒ(38.1%)との差を前年の5ポイント差から4.1ポイント差に縮めた。サントリーは前年に新商品を多く出した反動から出荷量が減少したものの、シェアとしては横ばい。サッポロは『極ゼロ』をめぐる国税当局との綱引きから製法を変更した影響もあってシェアを0.9ポイント落とした。簡単にいえば、その分をキリンがソックリ奪取した図式である。 もっとも1980年代前半までのキリンは6割のシェアを握り、圧倒的な存在感を見せつけた業界のガリバーだった。それがアサヒとの“ドライ戦争”の頃から徐々にシェアを落とし、昨年は上半期と下半期を通した年間シェアが33.2%と過去最低に落ち込んだ。 「キリンの“屈辱”はもう14年も前になります。2001年にアサヒに抜かれ、盟主の座から滑り落ちました。'09年に一度だけ首位を奪回しましたが、そこは“公家集団”と揶揄されたキリンです。規模の拡大よりも収益性の重視を強調したことで地盤沈下に拍車が掛かりました。去年の暮れのドサクサに経営陣の刷新人事を発表したのも、三菱財閥の流れをくむグループ企業として、このままだとサントリーにも抜かれて業界3位に転落しかねないとの危機感が台頭し、背中を押されたからに他なりません」(キリン・ウオッチャー) 実際、天皇誕生日を翌日に控えた昨年12月22日、グループ持株会社であるキリンホールディングスは、三宅占二社長が3月総会を機に代表権のない会長に退き、後任に事業会社キリンビールの磯崎功典社長が就くこと、及びキリンビールマーケティングの布施孝之社長が1月1日付でキリンビールの社長に就くという変則人事を発表した。 布施氏は経営不振にあえいでいた小岩井乳業の社長に転出し、同社を再生させた後、経営中枢に呼び戻された経歴を持つ。その布施社長は上半期の手応えに「今年はV字回復の軌道に乗せる」との声明を発表、市場関係者を小躍りさせたばかりだ。 それにしてもジリ貧の一途をたどってきたキリンが、布施社長の就任を機に変身した理由は何か−−。証券アナリストは「主力のビールで従来は『一番搾り』と『ラガー』の2本柱を並列させてきた。それを『一番搾り』に集中させ、販売促進費を注ぎ込んだ結果、販売数量が6%も増えたのです。キリン内部がかなり活気づきました」と指摘する。 むろん、ライバルも手をこまねいてはいない。アサヒは大黒柱である『スーパードライ』の店頭販売とCMを連動させて販売拡大を狙うだけでなく、この派生商品を次々と投入している。サントリーは『モルツ』を『スーパードライ』や『一番搾り』と同価格帯でコクや旨味の強い『ザ・モルツ』に刷新し、高級ビール『ザ・プレミアム・モルツ』との2本立てでアサヒ、キリンに挑戦する。サッポロも『エビス』の限定商品でシェア拡大を狙っている。市場が縮小する中、夏本番とともにパイの奪い合いがヒートアップするのは確実だ。 「小売りでシコシコ実績を上げるよりも確実にパイが奪えるのは、居酒屋チェーンなど業務用市場の取り込みです。この分野で一日の長があるのは“行け行けドンドン”で押してきたアサヒですが、キリンの布施社長は自らトップセールスを手掛けており、既に回転寿司チェーンの『はま寿司』や婚礼会社『ベストブライダル』などの顧客契約をライバルから奪取した。アサヒ、サントリーなどは布施社長が持つ抜群の営業力に警戒心を募らせています」(前出・アナリスト) ライバルは同業他社とは限らない。上半期の出荷量ではビールが前年比1.1%減だったのに対し、発泡酒は各社が“糖質ゼロ・プリン体ゼロ”を相次いで投入したことから12.4%増となった。これが結果的にビール離れを加速させたのだから、実に皮肉な話である。
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芸能 2015年07月30日 19時00分
唐橋ユミ “下着を脱いだも同然”ショットで分かった奇跡の巨乳
〈私は巨乳ではありません〉 トレードマークのメガネと、愛らしさで人気のフリーアナウンサー・唐橋ユミ(40)は、'11年にネットで巨乳説が囁かれると、自身のツイッターでこう律義に否定してみせた。ところが、ここにきて「やっぱり巨乳だった!」と、改めてオジサンの脚光を浴びている。 「昨年10月に40代の大台に乗ってからは、ボディーラインや言動、さらに衣装のエロさもフル加速しています。7月12日の『サンデーモーニング』には、グレーの半袖ブラウスに白スカートという清楚なスタイルで登場しましたが、この時にも腰に手を当てて胸を突き出すようなポーズを取った。推定Eカップはありそうな乳房の膨らみが確認できたうえ、大きめに開いた脇からはブラと思われる白いものがバッチリ拝めたんです」(テレビ誌記者) また、『コロッケ千夜一夜』(BS日テレ)では、ミニスカドレス姿が定番。最近巨乳化が著しいと話題のおっぱいの膨らみとともに、股間のデルタゾーンを見せつける、なんともセクシーな姿が堪能できるのだ。 「秀逸なのは、5月1日の放送分。唐橋さんは黄色いノースリーブのワンピースを身に着けていたが、ソファに腰をかけてのトークコーナーでは、乾杯シーンでグラスを手に前屈みとなり、胸の谷間を惜しげもなくサービス。バーカウンター前でハイチェアに座ってのトーク場面でも、デルタ痴態の奥に純白のパンティーがチラつき、スタッフも大コーフンしていたほどなのです」(番組関係者) こうした唐橋のサービスぶりは、「今や業界トップクラス」との呼び声もあるほどだが、彼女がエロス転換に踏み切った背景には、やはり“不惑の年”が関係しているようなのだ。 夕刊紙デスクが言う。 「フリーとして遅咲きの唐橋は、熟女ブームの波を逃したくないのでしょう。巨乳化が顕著になりだした昨年秋には、週刊誌のグラビア撮影にも挑戦。『メガネを外すのは、下着を脱ぐのと同じくらい恥ずかしい』と話したこともある。この時に彼女は、メガネを外しフェロモン漂う胸の谷間を披露した。まさに素っ裸にされたような気分だったはずですが、このグラビアが大好評だったことから大胆路線に転換したのです」 エッチなボディーのPR術まで手にした彼女は、もはや四十路アナ最強!
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スポーツ 2015年07月30日 17時00分
俺たちの熱狂バトルTheヒストリー〈藤田和之vsミルコ・クロコップ〉
2001年8月19日、『K-1アンディ・メモリアル2001』での藤田和之vsミルコ・クロコップ。およそ全ての格闘技ファンが、藤田の勝利を疑っていなかった−−。 猪木軍vsK-1軍の大将戦として組まれたこのカード。藤田はこの頃、新日本プロレスを主戦場としていたが、前年PRIDEグランプリでは“霊長類ヒト科最強”マーク・ケアーを下すなど、日本の総合格闘技におけるヘビー級のトップと目されていた。 片やミルコは総合初挑戦。この試合に向けてアメリカで総合用の特訓を積んだとはいうが、付け焼刃の感は拭えない。 選手の格で見ても、このころのミルコはK-1においてピーター・アーツ、ジェロム・レ・バンナらトップ勢に次ぐ2番手グループの扱いであった。 つまりミルコは、今後繰り広げられるであろう抗争の序章として猪木軍に捧げられた“生け贄”であり、藤田vsアーツや藤田vsバンナの前哨戦…これが偽らざる周囲の評価であった。 「さらに言えば、当時の総合格闘技においては日本なら桜庭和志、UFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)でもティト・オーティズなどのレスリング出身選手がトップを張っていた。グレイシー柔術の神話も根強く残っていて“寝技有利、立ち技不利”が定説だったのです」(格闘技ライター) そのためK-1など立ち技の経験しかないミルコが、まさかレスリングベースの藤田に勝つなどとは、プロレスファンでなくとも想像していなかったのだ。 そうした予想の通り、ゴングが鳴ると藤田は特に警戒する様子もなく、何度かタイミングを計ったところでミルコの脚にタックルを決める。サイドポジションを取られたミルコはなすすべもない。 このまま勝負は決するかと思われたところで、レフェリーのストップがかかる。 「寝技から逃れようとしたミルコが、ロープをつかむ反則でも犯したのだろうと思ったのですが…」(スポーツ紙記者) 立ち上がった藤田の額からはマットに滴るほどの大出血。タックルが決まる直前に放たれたミルコのヒザ蹴りによるものだった。 結果、ドクターストップでミルコに凱歌が上がる。藤田は納得のいかない様子で抗議を続けるが、裁定が覆ることはなかった。 「完全に藤田の勝勢だっただけに“K-1にハメられた”というプロレスファンもいました。互いの身体が血で染まるような試合はテレビ向きではないという判断もあったかもしれない。だけど後に映像で確認すると、狙い済ましたヒザ蹴りがものすごい勢いで額を直撃している。あれを間近に見て、さらにおびただしい出血となれば、レフェリーがストップをかけたのも仕方がない」(同・記者) それでも、この試合に対する大方の見解は「アクシデントさえなければ藤田の勝ち」であった。 確かにあのまま試合が続いたならば、藤田がミルコを決めて勝つ可能性も高い確率であっただろう。しかし、それは“頭蓋骨の厚さが常人の2倍”ともいわれる藤田の頑丈さがあってのこと。普通の選手ならばヒザ一撃で失神KOとなっても不思議はなかった。 それを「ミルコに総合の技術なし」「くみしやすし」と判断したことが、プロレス界に悲劇を招くことになる。 「脚へのタックルに対し、ミルコは狙ってヒザを合わせてきたわけで、そうなると安易に飛び込むことはできない。ならば、まずパンチやキックでミルコの態勢を崩す必要があるけれど、立ち技はミルコの得意分野であり、普段本格的な打撃練習をしていないプロレスラーの手に負えるものじゃない。タックルもできない、立ち技でも勝てないとなれば、実はプロレスラー側には攻め手がないのです」(格闘誌記者) ところが、次にミルコと戦った高田延彦は、試合中に足を骨折したため終始グラウンド状態で引き分け。「寝転ぶ高田に何もできないミルコはやはり総合適正なし」と勘違いを増幅させることになった。 そうして迎えた大みそか。永田裕志はミルコのハイキックの前に一撃KOの敗北を喫する。 以後、プロレスは冬の時代を迎え、一方のミルコは総合格闘家としての才能を開花させていった。
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社会 2015年07月30日 16時00分
元暴力団の遺族に5億円! 「日航機墜落事故」封印された補償金の闇(2)
とはいえ、悪い話ばかりではない。伊藤氏と同様に、事故後も遺族のケアなどに奔走し、人知れず苦労をした“御巣鷹の影のヒーローたち”もいるのである。 伊藤氏がまず挙げたのは、元日航社員の天野英晴氏(80)だ。 天野氏は事故発生当時、JALの「整備安全衛生部」という部署に勤務しており、整備士約4500人の健康管理を担当していたという。X線・レントゲン技師の資格を持っていた同氏は、溶接やメッキなどの有害物を扱う社員や、騒音が激しい場所など厳しい環境で働く社員たちの健康管理を任されていた。 そんな天野氏も、事故直後からは「遺体回収作業」に従事。退職後も遺族のケアを続けた。 「私は事故当時50歳でした。発生直後は“初動の世話役”を事故翌日からやりました。これは1遺族に対して、JALの4職級の係長以上の社員が1人付いてお世話するもので、私は和歌山のご遺族の担当をさせていただきました。藤岡市(群馬県)の体育館に派遣され、ご遺体が発見・確認されるまで、ご遺族に付き添わせていただいたのです。 この和歌山のご遺族のご遺体は4泊5日で見つかり、ご遺族を和歌山までお送りして、49日までそこで面倒を見させていただき、東京に戻りました。そして、その後も『清掃登山』を続けたのです」(天野氏) 清掃登山とは、ひと通りの回収作業が終わった後も、数年にわたって続けられた“残りの遺体の捜索作業”のことだ。 「事故発生後、ご遺骨はバラバラになり、日が経つと骨が土中にめり込み、雨などで土が溶けて流れると、骨が出てくるという状況でした。その際、ご遺骨なのか、プラスチックなどの機体の一部なのかを見分けるのが難しく、断片に血球を作る組織があれば、『これはご遺骨だ』などと判断することもやりました」 天野氏によると、JAL職員は金曜日、土曜日、日曜日の3日間、20〜30人で山に登り、墜落現場周辺で捜索を続けたという。 「そこで、ご遺骨を発見すると、回収して群馬県警に日時や場所などの発見情報を記入して届けるんです。そういうことを続けているうちに、いつしか慰霊のために現場を訪れるご遺族を案内する役目も引き受けることになりました。毎年、山に登っていたので、現場周辺の地理にも詳しくなり、どなたがどこで発見されたか、ということなども分かるようになっていたからです。登山されてくるご遺族の方に、そうした場所の説明、案内をするようになったんです」 天野氏らは、遺骨の発見場所に登りやすくするための道を、斜面を削って作る作業も開始。急な斜面に、平らな道を40〜50メートル作ったこともあったそうだ。 「毎年、夏は山にこもっていましたね。5〜6年はやっていたと思います。やがて時間が経過し、年々ご遺族も気持ちが落ち着いてきましてね。何度もお会いしていると、一つの目標に向かって進む“戦友”のような人間関係ができてきました。もちろん遺族と加害者(JAL社員)という関係なのですが、ご遺族のわだかまりも薄まり、お互いに身内みたいな付き合いができるようになっていったんです。私は60歳で定年を迎えましたが、事故当時の50歳の時から、前半の5年は事故の後始末に、後半の5年はご遺族と一緒に、という感じでした」
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芸能 2015年07月30日 15時30分
着実に名脇役への道を歩む、尾野真千子の元カレ・高橋一生
24日にスタートした、遠藤憲一と菅田将暉がW主演のテレビ朝日系ドラマ「民王」で、遠藤演じる内閣総理大臣の公設第一秘書をクールに演じているのが、子役出身の俳優・高橋一生だ。 10歳のときから劇団に所属し、子役として活躍。34歳にしてすでに芸歴は24年のベテランだ。 幼い頃、引っ込み思案な性格で、人とのコミュニケーションをとるのが苦手で友達も少なく、それを心配した祖母が児童劇団に入れたことがきっかけで俳優活動をスタート。幼少期はぽっちゃりしていたが、今やすっかりスマートなイケメンとなった。 ドラマデビューは90年に放送された、田村正和主演の「ニューヨーク恋物語II 男と女」(フジテレビ)。中学3年生の時、児童劇団からの勧めで、宮崎アニメの声優オーディションを受け、見事、合格。映画「耳をすませば」で声優デビューを果たした。 数多くのアイドルを輩出した堀越学園を卒業。同級生のV6・岡田准一とは「ドライブに行くほど仲が良く、いつか一緒に仕事をしたいと互い語っていた」と発言していたが、岡田が主演した昨年の大河ドラマ「軍師官兵衛」で念願の初共演を果たした。 プライベートでは、女優の尾野真千子と同棲していたが、ゴールインはならず破局。昨年、同い年の女優・田中麗奈との交際が発覚するなどモテモテだ。 「先日、尾野は芸能プロ幹部と結婚。その際、一部報道で高橋に関して『売れない役者』という表記があったがとんでもない。見た目に合ったクールな役から、エキセントリックな役まで幅広くこなせるため、今や、ドラマ界からは引っ張りだこ。今後もオファーが途切れることはないだろう」(テレビ関係者) 電車の車内で聞こえる他人の会話や音が昔からダメで、それが気になって仕方がないので電車に乗れず、移動手段として乗り始めたバイクが趣味。「恋多き男」だが、結婚に向いているかと言えば微妙な気がするのだが…。
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芸能 2015年07月30日 15時30分
廃止となるTBS木曜午後9時のドラマ枠 後番組として「モニタリング」が2時間枠に拡大
TBS木曜午後9時のドラマ枠が7月期をもって廃止されることが決まっていたが、後番組として、木曜午後7時56分〜8時54分にオンエアされている「ニンゲン観察バラエティ モニタリング」を10月期から2時間枠に拡大することが明らかになった。 「モニタリング」は12年10月に水曜深夜枠で放送開始。13年4月に現在の枠に移動し、ゴールデン帯に昇格した。3月26日放送の4時間スペシャルが、番組史上最高の平均視聴率14.4%(数字は以下、すべて関東地区)をマークしたことが評価されたもよう。ここ最近の視聴率は7月23日=9.1%、同2日の4時間スペシャルは第1部=13.1%、第2部=11.4%。6月25日の3時間スペシャルが10.4%とまずまず。 MCはベッキーとブラックマヨネーズで、小泉孝太郎、笹野高史、ハリセンボン、木下優樹菜がレギュラーを務めている。スペシャルは別として、レギュラーで2時間枠のバラエティ番組は異例だ。 TBS木曜午後9時のドラマ枠は「ザ・ベストテン」の後番組として、89年10月からスタート。09年4月から水曜午後9時に移動したが、10年10月に木曜午後9時に戻った。「HOTEL」「渡る世間は鬼ばかり」「3年B組金八先生」などのヒット作を生んだ枠でもある。 しかし、近年は視聴率が低迷。今年に入ってからは、1月期の「美しき罠〜残花繚乱〜」(田中麗奈主演)が平均6.6%、4月期の「ヤメゴク〜ヤクザやめて頂きます〜」(大島優子主演)が平均6.5%。現在、放送中の「37.5℃の涙」(蓮佛美沙子主演)は6〜7%台で、2ケタには遠く及ばない。 そもそも、バラエティはドラマに比べれば、制作費も安くてすむ。「モニタリング」がコンスタントに10%前後の視聴率を獲っていることを思えば、ドラマ枠廃止→「モニタリング」2時間化は無難な選択といえそう。 TBSは3月いっぱいで、歴史ある月曜午後8時のドラマ枠も廃止しており、これで同局のドラマ枠は火曜午後10時、金曜午後10時、日曜午後9時の3本となる。(坂本太郎)
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レジャー 2015年07月30日 15時00分
ハッシーの中央競馬新馬セレクション(8/2札幌・8/2新潟)
今週デビューの注目馬は、8月2日(日)札幌第5R芝1800m戦に出走予定のプロフェット。馬名の由来は「先駆者、預言者。父名より連想」。牡、鹿毛、2013年2月27日生。栗東・池江泰寿厩舎。父ハービンジャー、母ジュモー、母父タニノギムレット。生産は安平町・ノーザンファーム、馬主はキャロットファーム。愛馬会法人・キャロットクラブの募集馬で総額3000万円。叔父には10年ジャパンダートダービー(JpnI)で3着となったバドードール(父クロフネ)がいる。本馬はきりっとした顔つきをしており、全体のシルエット、動きは父ハービンジャーに似た柔らかさがある。可動域が広く、キレよりも長く良い脚を使うタイプだろう。なお、鞍上には福永祐一騎手を予定している。 もう一頭の注目馬は、8月2日(日)新潟第6R芝1400m戦に出走予定のアッパレドンキ。馬名の由来は「ドンキホーテのように見事な活躍を」。牝、鹿毛、2013年3月27日生。栗東・藤原英昭厩舎。父ディープインパクト、母トレノトマト、母父デヒア。生産は新ひだか町・藤原牧場、馬主は廣崎利洋氏。近親には93年日本ダービー(GI)を勝ったウイニングチケット(父トニービン)や、96年皐月賞(GI)、菊花賞(GI)で2着となったロイヤルタッチがいる。本馬は胸前の筋肉にはまだ物足りなさがあるが、トモの筋肉量、質ともに高レベル。如何にもキレる脚が使えそうなシルエット。なお、鞍上には岩田康誠騎手を予定している。※出走予定競走には、馬の体調、抽選非当選により出走しない場合があります。<プロフィール>ハッシー山梨県出身。北海道・浦河にある生産牧場での牧童経験を活かし、馬の適性を見極める。特技は寝わら上げ。本サイト毎週火曜掲載の「ハッシーの地方競馬セレクション」、土曜掲載の「ハッシーのロックオン〜狙ったレースは逃さない!〜」も担当している。
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スポーツ 2015年07月30日 14時00分
“延長戦撤廃”“9回打ち切り制導入”の裏に隠された「プロ野球くじ」の黒いカネ(2)
ただし、実際に『プロ野球くじ』導入を検討していく上で、「八百長対策」と同じくらい難題となるのが「試合数の少なさ」だ。 一般的なサッカーくじ『toto』の場合、J118チームとJ222チームの試合の中から、指定された13試合の結果に賭ける。しかも、もともと競技の特性上、「勝ち」「負け」以外に「引き分け」の試合も多く、これがギャンブル性を高めているのである。 一方、12球団で構成されるプロ野球は1日6試合が限界。戦力面や相性、ホーム・ビジター、主力選手の故障者などを総合的に検討しても、Jリーグに較べて、すべての勝敗を予想することが比較的容易でギャンブル性は低い。 また、現在のプロ野球では“12回打ち切り制”が導入されているが、これを“9回打ち切り制”に引き下げると、「引き分け試合」が飛躍的に増えて、ギャンブル性を高めることができるというわけだ。 「結果、試合時間も短くなり、テレビ中継の時間内にプロ野球くじの結果も分かるとなれば、スポンサーも付いて地上波放送も復活。ファンも増えるという皮算用なんです」(前出の広告代理店関係者) 一方、日本プロ野球選手会にも、首脳陣と同様の理由で反対意見が根強かったようだが、こちらは“セカンドキャリア”という問題に直面しており、状況が変わってきたのだという。 「セカンドキャリアとは、プロ野球選手になったものの、ケガや実力不足で退団を余儀なくされた若手選手の再就職問題です。現在のプロ野球界には、退団した選手をケアする組織も費用も不足している。そこで期待されているのが『プロ野球くじ』の収益金。一部を選手会に分配してもらい、セカンドキャリア対策に充てたいというのが本音です」(前出のスポーツ紙デスク) 前半戦を終了し、セ・リーグは「全球団貯金なし」。パ・リーグの強さばかりが際立つが、その要因の一つが「セ・パの試合時間の違い」だと指摘する声もある。 近年、テレビ放映を意識したセ球団はバントを多用し、一発長打よりヒットでつなぐ戦術にスイッチした。一方、パは依然として試合時間に無頓着で、打撃戦にこだわっている。実は、これがパ強セ弱の要因にもなっているというのだ。 「気の毒なのは巨人の原辰徳監督です。圧倒的な戦力を抱えながら、空中戦を封印された結果、能天気な野球を続ける中畑DeNAに首位を奪われている。前半戦を借金ターンしたことで白石興二郎オーナーは原監督の来季に関し、『後半戦が終わってから』と言葉を濁している。実は、プロ野球くじ導入には巨人も賛成で、それを前提にするなら、落合博満・前中日監督の下でスモールベースボールを学んだ川相昌弘ヘッドの監督昇格こそ適任だからです」(別のスポーツ紙記者) さらに、巨人がプロ野球くじ導入に前のめりなのにはもう一つの理由がある。本誌既報通り、東京五輪・パラリンピック後に「新国立競技場」を本拠地球場にしようという狙いがあるからだ。 安倍晋三首相は17日、総工費が予算の2倍以上の2520億円に膨れ上がり、国民の批判が高まったとして、新国立の建設計画を白紙撤回した。これで、森喜朗元首相の悲願だった'19年9月のラグビー・ワールドカップでの“柿落とし”は夢と終わったが、ここにも巨人の影がちらつくのだ。 「安倍首相は1カ月ほど前から見直しの検討に着手していたと説明していますが、この時期はちょうど“巨人の新国立への本拠地移転”が表面化した頃でした。巨人からすれば、天然芝の育成に屋根は不要。それなのに2520億円で建設されては、レンタル料も高額になる。そこで、建設費の充当に検討されていたプロ野球くじの実施に読売グループが協力することで、建設計画の白紙撤回を政府筋に促したという情報もあるんです」(政治部記者) ここに、巨人以外の各球団の思惑なども複雑に絡み合い、『プロ野球くじ』導入に向けて舵を切ったのである。計画実現のために、ベンチ裏では多額の“黒いカネ”も動いているはずだ。
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芸能 2015年07月30日 12時30分
【バラエティ黄金時代】ヒットメーカー生産工場だった山田邦子の『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』
“好きなタレント調査”で、8年連続1位になった。「唯一天下をとった女芸人」と呼ばれた山田邦子。55歳になった今、バラエティ番組で観ることは減った。しかし、テレビが活気で満ちあふれていた1980年代から90年代にかけては、山田をテレビで観ない日はなかった。 全盛期に抱えたレギュラー番組は、14本。つねに多忙だったため、テレビ各局には山田専門の仮眠室が設けられたほどだ。85年には、ストレスからの円形脱毛症に悩み、坊主頭になって世間をアッと驚かせた。月収は、大きな紙袋2つ分。手渡しでもらった給与は、ン千万円。それが、何年も続いた。当然その記録は、所属する太田プロダクションの女性タレントで、誰も抜いていない。 山田の名を一気に知らしめたのは、『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系/81年〜89年)。芸人といえば男性至上主義だった当時のバラエティ界で、山田は“ひょうきんベストテン”の名司会で開花し、芸でてっぺんを獲った。その余波で89年にスタートしたのが、『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』(フジ系)だ。「山田」と「いまだかつてない」に由来している造語は、“やまかつ”と呼ばれた。 同番組が一般のバラエティと比べて異質だったのは、レギュラーメンバーだ。森口博子を本格的なバラエティアイドル=バラドルに仕立てあげたのをはじめ、番組初期には、ミュージシャンの大江千里、元体操選手の森末慎二、女優の高岡早紀、大物俳優の高橋英樹、外国人タレントのオスマン・サンコンやジョン・ムルアカなど、笑いに不慣れなメンバーをあえて揃えた。 やがて、ジャンルの枠を音楽にも拡充。まずは、Wink・相田翔子が準レギュラーだったこともあり、企画“日本全国早智子を探せ”を始動させた。そこで合格した横山知枝をパートナーにして、Winkのパロディ・やまだかつてないWinkを結成。90年7月には、『T intersection〜あなたに戻れない〜』で歌手デビューをはたした。さらに、翌91年には、卒業ソング『さよならだけどさよならじゃない』も発表し、いずれもヒットさせた。これがのちに、同番組が「ヒットメーカー生産工場」と呼ばれる礎となった。まず、頭ひとつぶん飛び抜けたのは、番組で結成した“やまだかつてないバンド”のコーラスを務めていた永井真理子だ。 “やまかつ”のオープニングに起用された『ZUTTO』は、最終的に40万枚を超えるヒットとなった。しかし、この曲、リリース予定の『EVERYTHING』のカップリングだった。フジからのオファーに、永井サイドは当然、“A面”の『EVERYTHING』を推した。ところが、番組側は「カップリングを使いたい」と言う。最終的に、永井サイドが“B面”を許可したことが幸いし、この歌がヒットした。 そんな永井を超えるヒットメーカーが誕生したのは、翌91年。火付け役は、KANだ。アルバム『野球選手が夢だった。』の収録曲にすぎなかった『愛は勝つ』が、“やまかつ”のエンディングテーマに起用。ジワジワ人気に火がつき、シングル化されると、200万枚を超えるミリオンセラーになった。オリコンヒットチャートランキングに52週も入り、『第42回NHK紅白歌合戦』にも出場した。 まさかのミリオン歌手を輩出した“やまかつ”。勢いはその後もとどまるところを知らず、次に、大事MANブラザーズを生んだ。すでにメジャーデビューはしていたものの、それまでの2枚はヒットにほど遠かった大事MAN。3枚目となった『それが大事』が売れなければ、レコード会社から解雇をニオわされていた。背水の陣で出した同曲は、“やまかつ”のテーマソングに起用。すると、人気に火がつき、週間ヒットチャートランキングでトップを獲得。以降、4カ月近くもベスト10内に食いこみ、160万枚以上を売った。92年のシングルCD売り上げランキングでは、2年前の永井と同じく、4位という健闘ぶりだ。 一般人を檜舞台に立たせ、芸能人のキャラ開花に役立ち、くすぶっていた音楽家の前途を明るく照らし、あげくに、みずからも輝いた山田と、そのファミリー。山田のようなクイーン・オブ・クイーンは、おそらくこの先、現れることはないだろう。(伊藤雅奈子=毎週木曜日に掲載)
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スポーツ 2015年07月30日 12時10分
100周年 2015年夏の甲子園 「高校野球の転機は金属バット導入」(前編)
高校野球は今年100年を迎える。その長い歴史のなかで、現場指導者たちが「最大の転機」と位置づけているのが『金属製バット』の導入だ。 高校野球の世界で金属製バットが解禁されたのは、1974年第56回夏の甲子園大会だった。同年8月6日付の毎日新聞に興味深いコラムが掲載されていた。タイトルは『金属バット賛否』−−。 「出場34校を平均すると、ほぼ2人に1人が“金属打者”」 正式に解禁が通達されたのは同年3月だが、センバツ大会でお披露目とならなったのは生産が間に合わなかったからで、製品が十分に出回っていない状況も配慮し、「夏の大会から」となったのである。 木製バットは芯を外すと折れてしまうことが多々ある。また、雨天などで湿気を吸ってしまえば使い物にならなくなってしまう。金属バットはその弱点を完全に補っており、耐久性も高い。バットの材料となる特殊な木材の量も限られている。自然保護環境への配慮も含め、導入時点ではもう一つの特徴である『反発力の高さ』はさほど懸念されていなかったようだ。 また、材質、色などに制限が掛けられての解禁となったため、夏の大会で実際に使用できたのは米国社製品だけだった。コラムでは「使用者が2人に1人の割合」とあったが、地方大会を含め、ほぼ全員が金属バットを使用している現在では考えられない。同時期の朝日新聞、読売新聞によれば、解禁元年の同大会で、「東海大相模(神奈川県)だけは全員が金属バットを使用」と紹介されていた。 その東海大相模は3回戦(対盈進/広島県)で16安打13得点と圧勝し、金属バットの快音を甲子園に響かせた。原辰徳・現読売ジャイアンツ監督が一年生ながらベンチ入りしており、翌年春、津末英明(日本ハム−巨人−現巨人職員)とのクリーンアップで攻撃野球を繰り広げていく。 当時を知る元私学職員が東海大相模の攻撃野球を、こう回顧する。 「故・原貢さん(監督/当時)は攻撃的な野球を好む指導者でしたが、金属バットの怖さみたいなことも話しておられました。同校の野球場で、金属バットでのフリー打撃練習をさせたら、ライナー性の打球を追う外野手がフェンスに激突したそうです。その外野手は『捕れる』と判断したから全力で追い掛けたわけで、金属バットで放たれた打球は低い弾道でも外野フェンスまで届くという怖さを認識されていました。外野フェンスにラバーを貼るなど、緊急措置がされました」 しかし、元在京球団スカウトもこんな話をしてくれた。同年、もっとも高く評価されたバッターは銚子商(千葉県)の篠塚利夫(現・和典)だったという。 「2年で4番。彼が使っていたのは木製バット。これまで使っていた木製バットとの違和感で金属バットを使わなかったと聞いたように記憶している。体は細かったが、木製バットをしならせるというか、材質の特徴を存分に生かした打撃を見せてくれた」 調べてみたが、篠塚は同年夏、大会第5号の本塁打を放っていた。 同大会の総本塁打数は11。前年は10本。数値では大きな変化はないが、その後、高校野球は打撃マシンの定着などもあって、1982年に史上初、総本塁打数が30本を越える。当然、金属バットは全球児に浸透していた。(スポーツライター・美山和也)
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