■勝利のために決断したエースの連投
その瞬間、「G党」は勝利を確信したかもしれない。
2013年、日本シリーズ第7戦9回表、マウンドに田中将大が立っていた。前日に160球以上を投げ、完投した田中。連投となるリリーフは、その試合を見つめる全ての人間が目を疑ったといっても過言ではなかった。楽天にとって、2005年の球団始動以来初の日本一が懸かる場面とはいえ、テレビ解説者も含め誰もが田中の登板を疑問視せざるを得ないシーンだった。ただ一人、星野監督を除いて。
田中は二本のヒットを打たれるなど、明らかに疲れの影響が見えた。この回ランナーを二人出塁させ、計5人の打者と対するも最後は変化球で三振を奪い、この試合を締め括る。前日の第6戦でこの年の公式戦初、そして唯一の黒星を喫した巨人に対し、リベンジを果たした瞬間だった。ただ、翌年からアメリカへ渡ることが決まっていたこともあり、仙台のファンの目の前で最高の結果を手繰り寄せたものの、この登板に対し、後々、各方面から様々な声が上がったのも事実。
批判は覚悟のもと、ともすれば逆転され、自身初ともなる日本一を逃すことさえもありえたが、田中本人の意志も確認の上、星野監督はあえてエースを送る。そして、日本の野球史に伝説が刻まれた。
■金メダルが期待された日本代表では
北京五輪イヤーの2008年、野球日本代表を率いた星野監督。五輪予選となった前年のアジア選手権を劇的な内容で勝ち抜き、『金メダル以外いらない』と公言し、星野ジャパンは国民から大きな期待を寄せられていた。しかし、結果はメダルなしに終わる。
オリンピック準決勝で起きた「世紀の落球」で、大きくクローズアップされた星野監督の選手起用だったが、大会前の選手選考でも記憶に残ったエピソードがある。日本代表のクローザーとして絶対的な存在だったのが上原浩治。前年から巨人でリリーフとして活躍し、星野ジャパンでも守護神として予選突破に貢献していた。
しかし、2008年ペナントレースでは再び先発ローテーションで起用となるも、開幕から敗戦が続き、防御率も6点台と絶不調に陥る。早々に2軍落ちとなり、新人時代から巨人のエースとして君臨し続けた上原の輝きは失われ、それにより、誰もがこの年の夏に行われるオリンピックへの出場は消えたかに思われた。
その中でも、星野監督は「なにがなんでも連れていく」と頑なまでに上原への信頼を変えることなく、多くの批判の中、代表メンバーに選出した。日本の金メダルの獲得は信じて止まなかったものの、この時、星野監督の勝負師としての顔の他に、別の一面を垣間見えた気がした。
■ドラゴンズでは血気盛んな熱血監督として
「ケンカ野球」「恐竜打線」と恐れられていた第一期中日ドラゴンズ監督時代。
就任3年目の1989年、この年巨人からトレードで西本聖を獲得。移籍1年目のこの年、20勝を挙げドラゴンズ先発投手陣の柱として活躍したが、この移籍のきっかけとなったのが星野監督就任1年目、巨人との開幕戦だったといわれる。
1987年シーズンの初戦、必勝を期したドラゴンズだったが、巨人先発の西本に完ぺきに抑えられて敗戦。特にこの年よりドラゴンズに加入した三冠王・落合博満に対し、全打席をシュートで攻め抑え込むという徹底ぶりで、記念すべき初陣を飾ることが出来なかった星野監督は、この時に西本獲得を思い立ったという。
それから二年後、困難とみられていたライバル球団である巨人とのトレードを成立させ、西本を獲得。だが、かつては巨人のエースだった西本もこの頃すでにベテランの域に差し掛かり、年々成績も下がり続け出番を失っていた。それでも、信念を曲げることなく中日に迎え入れ、見事に先発として復活。さらにはこの年の夏、オールスター戦、セリーグを率いた星野監督は初戦の先発マウンドに西本を送り込んでいる。
いずれのケースも、「情の野球」と呼ばれた星野監督らしい選手起用だったといえる。無論、その決断の裏には指揮官としての確かな目論見、そして、勝算もあったはずだ。それでも、どちらかといえばチームを勝利に近づけるという意味の他に、人と人との強い繋がりを誰よりも大切にしていたように思えた。
プロ野球というスポーツを通じて「人間」というものを強く感じさせてくれる人だった。(佐藤文孝)