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甲子園100周年 知られざる「白球史」と「暗黒史」(2)

 また、甲子園の歴史を変えた出来事のなかで、もっとも衝撃的だったのは、金属バットの導入だろう。
 高校野球で『金属製バット』が解禁されたのは、昭和49年の第56回大会。同年8月6日付の毎日新聞に『金属バット賛否』と題したコラムによれば、「出場34校を平均すると、ほぼ2人に1人が“金属打者”」と記されている。

 原辰徳・現巨人監督の東海大相模(神奈川県)だけは全員が金属バットを使っていた。それは木製バットに比べ、芯が広く、耐久性も高いため。芯を外せば折れてしまい、かつ雨に濡れれば湿気で使い物にならなくなる木製バットの弱点を全て解消させた。やがて、反発力が高い金属バットは、守り勝つ高校野球の姿をパワーで打ち負かすスタイルへと変貌させる。
 その攻撃野球への転換点ともいえる東海大相模は、同大会の3回戦(対盈進/広島県)で16安打13得点と圧勝した。興味深いのは、前年第55回大会決勝戦と試合内容があまりにも対照的だったこと。昭和48年夏のその大会で広島商(広島県)は犠打、エンドラン、スチールなどの小技を巧みに絡めて勝ち上がっていき、決勝戦はスリーバントスクイズでサヨナラ勝ちした。

 広島商の迫田穆成監督(現広島・如水館高校監督)は「1点を必死に守るタイプ」だったが、昭和57年、第64回大会で池田高校(徳島県)のやまびこ打線と決勝戦を争う。結局、水野雄仁(元巨人)らに18安打の猛攻を浴びて大敗した後、迫田監督はこう語っている。
 「細かい野球ならいくらでも対応できるが、『ホームラン行け』の指示で本当に長打を打ってくるチームには対応のしようがない。金属バットだからこそ…」
 池田高校が攻撃野球の象徴だとすれば、スクイズで頂点を極めた迫田監督が相手だったのは、単なる偶然だろうか。

 高校野球に関する著書を多く持つスポーツジャーナリスト・手束仁氏が「100年の歴史」をこう回顧する
 「近年を振り返っただけでも、特待生問題、タイブレーク制導入の是非、プロアマ問題など、さまざまな変更がありました。変わるから歴史であって、変わったからこそ高校野球の今日がある。日本人の気質に高校野球が、野球という競技が合っていたんだと思います。野球が文化として発展したのは、メディアの力も大きいでしょう。夏の大会は朝日新聞社、春は毎日新聞社。メディアの発展とともに高校野球も成長したんだと思います」

 「日本人の気質に合ったもの」として語るならば、高校野球が教育であったことも再認識すべきだろう。
 試合の前後、両チームがホームベースを挟んで『整列、礼』をする。この儀式は小・中学校、大学、社会人はもちろん、今や草野球でも当たり前のように行われているが、高校野球が発案提唱したものなのだ。

 明治後半から大正時代にかけ、野球競技を批判的に捉える国民も多く、明治44年8月、東京朝日新聞は「野球とその害毒」なる連載を22回掲載した。
 「(省略)野球商売人になるということは、学生としては目的の変換で学会の敗亡者である」
 今日の高野連となる重鎮たちが「批判する朝日新聞が先頭に立ってやり方を直し、野球を教育の場にしたら」と提案し、野球の本場・アメリカにもない『整列、礼』を取り入れた。それが、今日も続いているのである。

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