まだ燃え尽きていない。トライアウトを再受験し、現役生活を続けてみせる…。
その06年のトライアウトと前後して、一本の電話が掛かってきた。「独立リーグでコーチをやってくれないか」−−。鈴木康友監督(現東北楽天コーチ)からだった。次年春、北陸、上信越地区で独立リーグがスタートする。現在の『ルートインBCリーグ』である。富山、石川、新潟、信濃(08年より福井、群馬参画)の4球団で年間約70試合を行うとし、その基盤作りが進められていた。その富山サンダーバーズ監督への就任が決まっていた鈴木が指導者としてのオファーをくれたのだ。
本当に有り難かった。野球に関わった仕事ができる…。しかし、宮地は返事を保留した。
2度目のトライアウト終了から約1週間が過ぎても、どの球団からもオファーはない。鈴木監督から再び電話が入る。今度は言葉を変えてきた。
「プレーイングコーチならどうだ?」
現役を続けたい、NPBでやりたいと考える宮地にとって、妥協できるギリギリの条件だった。
「自分は遅咲きだったと思いますが、コーチとしてもチームメイトとしても、良い刺激になれば。チームメイトのいい手本になりたい」(06年12月13日入団会見より)
独立リーグでは驚きの連続だった。
ゼロからのスタートとはよく言うが、本当に何もなかった。
まず、練習する場所がない。選手たちは少年野球や草野球チーム同様、グラウンド貸し出しの抽選会に行くのだ。
打撃練習を行う際にも、こんなことがあった。2カ所でのフリー打撃を行おうとしたら、ホームベースが1枚しかない。段ボールを拾って、その大きさに切って置いてみたものの、風が吹けば飛ばされてしまう。フリー打撃にしても、終われば全員で外野に行き、ボール拾いをしなければならない。バットを折るようなことにあれば、選手は涙目でそれを見つめている。野球用具の手入れ、ユニフォームの洗濯、NPB時代なら裏方の球団職員がそれらをやってくれていたことも自分でやらねばならなかった。
いままで当たり前のように思っていたNPBの生活がいかに恵まれていたかを知った。
「NPBは夢を与える商売だから、それでいいんです。でも、野球をやりたいということは、こういうことなのかもしれません。NPBにいた時代は、フリー打撃でも打ったら打ちっ放し。自分たちで後片付けをやるなんて考えもしなかった。ここでは自分たちで工夫をし、時間を効率よく使い、道具のありがたさを知る。自分も練習しなければならないし、創意工夫の連続で、どうやって練習をやるかを考え、密度の濃い毎日が過ごせたように思います」
グラウンドが2時間しか使えないのなら、アップ運動やランニングは外でやればいい。プレーイングコーチの宮地は集合時間を前倒しした。独立リーグの若い選手たちは自炊もし、プラスチック容器に入れた白飯の上に豚バラ肉を焼いたものを敷きつめ、それを手弁当として持って練習や試合に臨んだ。技術的にも至らない部分はある。しかし、情熱はある。宮地自身もコーチとプレーヤーの兼任は肉体的に厳しかったが、前倒しした練習集合時間のさらに1時間前に来て、アップ運動やティー打撃を行った。それから若い選手に混じって練習を行い、指導もする。若い彼らの気持ちを掴むため、自ら話し掛け、携帯電話の番号も教え、コミュニケーションを図ってきた。