それに地元・大津びわこではケタ違いに強かった。「びわこの中井さんには勝てへん」と石田雄彦がいうように、昭和29年から31年まで高松宮杯は3連覇している。のちに滝沢正光(千葉)が昭和60年から62年まで連覇してタイ記録に持ち込んだが、それまで中井の記録は破られなかった。
ふだんは温厚だが、レースでは結構厳しい。競りでいっ時、特別競輪で名を売った田中広光(21期)も中井の指導を受けて一流のマーク屋になったし、びわこでは負けなしといわれた杉田耕一郎も中井の弟子だった。
昭和28年の大阪中央・日本選手権を18歳で優勝。昭和34年にも大阪中央の500バンクでオールスターを制覇。この決勝戦には松本勝明、それに大阪勢の山本清治、西村公祐、石田雄彦がいたが、中井優勝、松本勝明2着で京滋ラインが地元勢を抑えた。500バンクは本当に得意だった。
さらにタイトルは全国都道県選抜競輪で昭和28年の名古屋3千メートルを18歳で制覇。昭和30年の大宮4千メートル、31年の神戸4千メートルも勝ち、8つの特別競輪ホールダーになったが、実はもう一つ大きなタイトルを寸前のところで逸している。
それは昭和33年11月の後楽園・日本選手権だ。吉田実(香川)が優勝、中井は2着になった成績が残っているが、当時追い込みで売り出していた白井通義(神奈川)が直線むりやり中を割って中井と接触、追い込みに掛かった中井が追突される形になり、さらに中井が吉田の後輪に接触して吉田を押す形になった。これは白井が引退後に話してくれたのだが、「中井さんには悪いことした。あのままだったら中井さんが吉田さんを差して優勝だったよ」
それを機会があって中井に話したら「そうやな。タイトルを一つ落としてしもうたことになるかな。でも競走やからな。誰でも勝ちたいんや。白井の気持ちはようわかるで。当時は木リムやからすぐバリンとくるんや」と淡々としたものだった。
滋賀のドンというだけでなく大津市でも有名な中井。駆け出しの記者の質問にも誠意を持って応えてくれる素晴らしい人だった。昭和60年10月29日、今は廃止になった甲子園で千勝を達成5番目に千勝クラブ入りした。同じころ選手登録した吉田実より遅かったが執念で千勝した。15歳でプロ入りして35年目の汗の結晶だった。