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1960年代あたりまでの生まれなら、頭突きのことを「チョーパン」と呼んだ記憶があるのではないか。
朝鮮パンチを略してチョーパン。今となっては真偽は不明だが、朝鮮学校のヤンチャな学生がケンカの際に頭突きを得意としたことで、この呼び名が広まっていったといわれている。
朝鮮半島出身者=頭突きというイメージは、かなり古くからあったようで、大木金太郎は’59年、日本プロレスに入門すると、力道山から直々に「おまえは韓国人だから頭を鍛えなさい」と言われ、以降、それを得意技とするようになった。
頭を鍛えるといっても筋トレでどうにかなるものでなし、ただひたすら額を壁や柱に叩きつけるのみ。頭突きの威力を高めるのと同時に、「自分が痛みに耐えられるようになる」ための特訓を積み重ねた。
そうするうちに、鉄柱に額からぶつかっていっても平気になったというのだから、常人には想像を絶するものがある。
「大木は後年、交通事故に遭ってそのとき頭蓋骨に食い込んだガラス片は手術でも取り除けず、以後は頭突きをするたびに流血するようになりました。さすがに大木自身も痛かったでしょうが、それでも頭突きを続けられたのは若い頃からの特訓のたまものでしょう」(プロレスライター)
そうした頭突き一筋のスタイルを支えたのが、大木の信念とド根性だ。
力道山を尊崇し、日本に密入国したのはすでに30歳を間近に控えた頃で、日プロ入門後に20歳そこそこの馬場正平(ジャイアント馬場)やまだ10代だった猪木寛至(アントニオ猪木)とともに「若手三羽烏」としてしごかれたことは、肉体的にも相当な負担であったことだろう。それを耐え抜いた大木の精神力は並大抵のものではない。
力道山の死後には二代目力道山襲名の話も持ち上がったが、これを提案した豊登の失脚により立ち消えとなる。目標を失った大木は、韓国へ帰国して大韓プロレスを旗揚げし、一定の成功を収めたが、運命は大木の安定を許さなかった。
アントニオ猪木の東京プロレスへの参加により、日プロの選手層が薄くなったことで、その代役として大木が呼び戻されたものの、猪木の復帰により三番手以下に格下げられる。その後、猪木と馬場が立て続けに退団したことで、ようやくエースの座が巡ってきたが、頭突き一辺倒の試合ぶりは馬場や猪木に比べると華に欠け、ついには団体崩壊となる。
行き場を失った大木は、なし崩し的に全日本プロレスに入団するが、冷遇を不服として退団。ちょうどその頃に、国際プロレスを退団したストロング小林が猪木と名勝負を繰り広げたのを受けて、大木はターゲットを猪木に定める。
★猪木と因縁対決激闘の末の涙!
大木はまず内容証明郵便で挑戦状を送りつけるが、当初、猪木はこれを無視することになる。
「これは猪木というよりも、日プロから新日本プロレスへ参加した坂口征二の意向によるもの。坂口にしてみれば日プロ崩壊直前、新日との合併話に猛反対して潰した大木が、何を今さらというわけです」(同)
猪木としても同じ釜の飯を食った先輩とでは、やりづらさはあっただろうし、後のない大木が何をやってくるか分からないという怖さもあったろう。
しかし、大木は猪木の自宅や宿泊先のホテルにまで押しかけて対戦を直訴。結局、猪木が根負けする格好で試合が組まれたが、大木は「勝利ではなく頭突きで猪木を破壊することが目的」と豪語した。
「ガチとアングルが微妙に混じり合った、のちの小川直也vs橋本真也みたいな状況だったようです」(同)
試合当日、大木は必殺の「原爆頭突き」に懸ける思いから、キノコ雲の絵柄をあしらったガウンで入場。猪木が徹底してこれを封じ込めようとする緊張感あふれる攻防が続く中、ついに頭突きが炸裂する。
防戦一方となり「猪木危うし」の空気が流れるが、中腰で立ち上がった猪木は「もっと打ってこい」と挑発のポーズをとってみせた。
「そのとき額からツーッと一筋の血が流れたのは、プロレス史上屈指の名場面。猪木のものまねで『来い! コノヤロー』とやるのは、これが元ネタです」(同)
大木は挑発に応じて頭突きを連発するが、これを耐え続ける猪木の形相に一瞬ひるんだところに、猪木のナックルパートが炸裂。乱打戦の中、バックドロップを決めた猪木が勝利を収め、激闘に感極まった両者は抱き合って涙を流した。
以後も大木は坂口との因縁マッチなどで、新日に活況をもたらすことになる。これに焦った馬場が、大木を全日に引き抜いたことで抗争は終結したが、それがなければ日本における大木の立ち位置は、また異なっていたに違いない。
大木金太郎
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PROFILE●1929年2月24日〜2006年10月26日。大韓民国(日本統治時代の朝鮮)出身。
身長185㎝、体重120㎏。得意技/頭突き。
文・脇本深八(元スポーツ紙記者)