案の定、後藤田は田中の期待に応えた。田中内閣時には徹頭徹尾「省益で動くな。国益で考えろ」と“大義”で官僚を押え込み、田中退陣後は田中がなお影響力を残すために担ぎ上げた政権の“後見人”として、政権の維持に尽力したのだった。その白眉が、当初「ボロみこし」とも言われた中曽根康弘内閣に、5年に及ぶ長期政権を果たさせたことであった。戦国時代、豊臣秀吉に天下を取らせた名軍師として名高い黒田官兵衛にも擬せられているのである。
後藤田には名言、至言が多い。「トップには耳ざわりのいい情報しか入らない。周りが本当の情報を伝えてご機嫌をそこね、にらまれるのを嫌がるからだ。これではトップは方向性、戦略を誤ることになる。耳に痛い情報こそを、上にあげることだ」「独裁社会ならそのレールに乗っていればトップは務まるが、民主主義社会だからこそ強いリーダーシップが不可欠」等々、枚挙にいとまがない。そうした信念のもとで、中曽根内閣時代の一つ判断を間違えれば戦争危機もあった大韓航空機撃墜事件を、官房長官として沈着、冷静に処理してみせている。また、その後も「自社さ」3党連立政権で社会党(当時)の村山富市内閣を陰から支え続け、阪神・淡路大震災で怯む村山首相に危機管理のノウハウ、知恵も授けた。大震災復興への対応では、竹下登元首相が「後藤田さんしかいない。特別顧問としてなんとか一枚加わってもらえ」と村山首相に強く進言、後藤田は各省庁の言い分を押え、予算面で国と地方の役割を明確に分け迅速な復興に寄与したものである。後藤田がいれば、いまの東日本大震災復興への迷走も、いささか違った形になっていただろうと思われる。
その後藤田の人を観る目は峻烈であった。端的に言えば、頭の悪い人物は認めなかった、加えるなら、真摯に物事に向かい合わない人物は認めなかったという点がある。後藤田と知しかった議員の、こんな証言がある。
「後藤田が危機管理の達人、いくつかの政権の安定に寄与できたもう一つのポイントは、周りに優秀な人物を置いていたことがある。話をしていて、自分をごまかせるだけの能力のある人物を縦横に使ったということだ。上役の話にお説ごもっとも、ハイ、ハイといったタイプは排除した。そのうえで、決して自惚れることなく、部下にも真っ正面から向かいあえる人物を使った。これは、『下3日にして上を知り、上3年にして下を知る』という俚言の実践でもあった。上の者は3年かからないと下で働く者のことがわからないが、下の者はたった3日で上に立つ者の能力、人間性を見抜いてしまうということだ。下の者は上の者をよく見ている、ごまかしは通じないぞ、との人間観が徹底していた。だから、後藤田は上からも下からも敬意を持たれ、指揮棒が振るえたということだ」
田中角栄という人物は自分の能力に絶対的自信があったことで、まず人の意見を聞かなかったことで知られていた。ある時、田中が後藤田の前で「警察などはチョロイ」と口をすべらせた。後藤田はピシリと、「冗談ではない。そんな考えだと足をすくわれますぞ」と言い切ったものである。しかし、その後の後藤田の的確な政治手法に脱帽、唯一「後藤田が言うんじゃしょうがない」で、後藤田の進言だけには耳を傾けたのであった。必要とあらば、総理をも黙らす才覚の人だったということである。
その後藤田には、自民党内から度々「総理になって欲しい」の声が出た。しかし、後藤田はその度にこれを断わった。「“床の間”を背にしてすわる人物には、おのずと格というものがある。私はその器にあらず」と。
読者諸賢、後藤田の情実に流されずの見識を胸に置いておいて損はないのである。=敬称略=
後藤田正晴=警察庁長官(第6代)、自治大臣(第27代)、国家公安委員会委員長(第37代)、北海道開発庁長官(第42代)、内閣官房長官(第45・47・48代)、行政管理庁長官(第47代)、総務庁長官(初代)、法務大臣(第55代)、副総理(宮澤改造内閣)などを歴任。
小林吉弥(こばやしきちや)
永田町取材歴46年のベテラン政治評論家。この間、佐藤栄作内閣以降の大物議員に多数接触する一方、抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書多数。