音羽山親方は青森県三沢市出身で、中学時代に当時の藤島親方(のち二子山、元大関貴ノ花)にスカウトされ角界入り。1987年の春場所で浪岡の四股名で初土俵を踏み、'91年九州場所で新入幕を果たした。
「二子山親方は、浪岡は黙っていても強くなる、将来の大関、横綱は間違いないとまで踏んでいました。部屋は一人100番くらい稽古する荒稽古で知られていましたが、浪岡は身長196センチと体格にも恵まれ、とにかくよく稽古をしていた。親方が目をかけるのも当然の逸材でしたよ」(元力士)
十両に昇進すると、親方の貴ノ花と本名の浪岡から「貴ノ浪」とした。'93年5月場所には小結、続く7月場所で関脇に昇進。翌年初場所後に大関となり、3月場所では12勝3敗で、曙、貴闘力との優勝決定戦に進出したが、優勝は曙にさらわれた。貴ノ浪らしさを発揮して初優勝したのは、'96年の1月場所だった。
「貴乃花との同部屋対決の優勝決定戦では、貴乃花が切り替えしにくるところを河津掛けで制した。大事な一番で大横綱を大技で破るなんて、貴ノ浪にしかできない芸当ですよ。翌年の11月場所でも再度、貴乃花との同部屋決定戦に臨み上手投げで勝った。ただ、同じ部屋に強豪力士がひしめき合う状況が窮屈なのか、横綱への執念を感じなかったのが印象的です」(同)
その後、2度の大関陥落を経験し、2004年3月に現役を引退。大関時代から心臓に持病があり、'06年には心房細動、敗血症などで生死をさまよったこともあった。
「とんでもない酒豪で、ピッチャーに氷を入れてブランデーを飲みまくっていた。そんな若い頃からの暴飲がたたったのか、大関時代はすでに心臓を患っていたんです。しかし貴乃花部屋の大番頭で、貴乃花親方が理事長になった暁には事業部長のポストも約束されていた。現役時代の取り口は豪快でしたが、核心をついた解説には定評があり、頭も切れ味抜群だったんです」(相撲関係者)
新しい時代を築く牽引車となる人材だっただけに、若くしての突然の死が惜しまれる。