「実は、『天』は遡ること4年前に作曲家の泉盛望先生から、“歌ってみないか”という話があったんです」
伊南の曲のアレンジャーとして知り合った泉盛は、「この『天』はね、伊南さんの人生そのものだ。ボランティアで歌を教えたり、人が困っているときは我が身を捨ててでも助け舟を出す。この『天』はそういう詩なんだよ。西郷隆盛さんという人がそういう人だったから」と説得したという。
しかし伊南は、自分はそんな偉くもないし、それに青森出身の男が鹿児島の英雄である西郷隆盛の曲を歌うのは失礼に当たると、レコーディングを拒否したという。それでも4年後、再び泉盛は「やはり、『天』は伊南さんしかいない」と執拗に口説いた。
泉盛は当時を振り返って、「天という曲はチェリッシュの『てんとう虫のサンバ』や西城秀樹の『傷だらけのローラ』、美空ひばりの『裏町酒場』と幅広いレパトリーを持つ作詞家のさいとう大三先生から“これ、いい詩だろ、曲付けてよ”と言われて預かったんです。これは伊南さんしか、歌える歌手はいないと思って聴かせたんですが、興味を示さなかったんです」という。
それから4年の歳月が流れたある日、伊南が「孫が爺さん婆さんを殺すなんてことは昔、なかったよね」と言い出した。泉盛は「そうだよなぁ。日本人の魂を無くしているよ。やっぱり天だよ天」と返した。
「伊南は、そういえば天という曲があったよね。もう一回、ピアノで聴かせてよ、と言ってきたんです。それ以来、天にのめりこんでいったんです」(泉盛)
のめり込みながらも躊躇する伊南の肩を押したのは『全国舞踊協会』の四国民舞『輪の会』の宮川和扇会長だった。
「宮川先生は特攻隊の生き残りで、自分のレコードジャケットに載っている踊りの振り付けをしていただいたことからお付き合いさせていただいているんです。宮川先生に曲を聴かせたら、“伊南さん、今こういう曲は、この時代にはなかなかない。早く出した方がいいよ”と言われたんです」
伊南は西郷隆盛の座右の銘“敬天愛人”という言葉は道徳心が薄れた現代には必要だ。歌で警鐘を鳴らすのも一つの方法かもしれないと、20年ぶりに『天』という曲をリリースすることを決意した。
「実はこの業界にはジンクスがあるんです。“鹿児島の人が鹿児島の歌を歌ってもヒットしない”といわれているんです。それだけに青森県人の自分が歌って、ヒットさせたい。鹿児島市長から“曲を聴いて感激しました”と礼状が届いた。鹿児島県知事もCD販売に協力していただいて勇気づけられました」
その後、伊南は『天』というタイトルの自叙伝を出版。平成20年にはニューバージョンの『天』をリリース。地道にキャンペーンを続けながら、東日本大震災後は毎月、被災地を津軽三味線を抱えて、慰問に歩いている。
「目立つのは嫌で、極力、マスコミが行かないところで、慰問を続けてます」
伊南にも野望はある。
「一度でいいから、NHKの番組に出て、慰問に行ったホームのお爺ちゃんやお婆ちゃんに頑張っているところを見せたいですね」
CDのヒットもNHK出演もすべて、“天の赦す所”。
天でごわすよ人生は♪
伊南の偽らざる心境だ。
(取材・文/本多圭)
いなみ・よしひと
1947年、青森県出身。昭和39年より民謡の世界に身を投じ、昭和57年に『にしん場恋唄』でデビュー。『歌う八百屋』として話題に。平成18年にリリースした『天』のキャンペーンの傍ら、被災地の慰問活動を続けている。