明治22(1889)年5月、国の「市制・町村制」に基づき、全15区、人口137万人で東京府下に設けられた東京市(現在の東京23区)は、明治27(1894)年の日清戦争を契機に産業革命と資本主義が発展し、仕事を求めた人々が相次いで上京。人口が市郊外にあふれ、近郊農村は、工場用地や宅地に姿が移り変わっていった。
後に目黒競馬場ができた当時の目黒・碑文谷周辺も農村から郊外住宅地域への都市化が進み、明治時代の目黒地域のひとつの特徴となった。
目黒競馬場は当時、現在の油面(あぶらめん)小学校の一帯が候補地だったが、農地を手放すことに地元農民が猛反対したため、現在の目黒通りの南側に位置する窪地を含む場所に建設された。
一方、反対の声とは対照的に、競馬場建設に対し、恩恵を受けた人も少なくない。JR山の手線目黒駅から1kmほど離れた大地に6万5000坪の敷地を擁した目黒競馬場は、その8割が地主の瀧泉寺からの借地であった。
当時、建設を行った東京馬匹改良株式会社が、地主には相場の4倍もの借地料(坪当たり月2銭)を、小作人には競馬場特別作業員として、日当50銭を支払っていたというので、地主は喜んで土地を貸し、小作人も競馬場建立に向けて協力した。
また、この時期は馬匹改良のため、今日はつきものである勝ち馬投票券の導入を推奨する動きも活発化していた。すでに馬券は明治(1888年)21年、居留外国人を中心に組織されていた日本レース・倶楽部が横浜の根岸競馬場において1枚1ドルで発売していた。
それから約20年近くの歳月を経た明治(1906年)39年、ちょうど目黒競馬場が工事着工に入っていたころだった。東京競馬会が主催する池上競馬場(現在の大田区池上6-8丁目)で日本人主催者として初めての馬券が発売された。その反響は言わずもがな、大衆の娯楽として大成功を収めたのであった。
※参考文献=目黒区50年史/月刊めぐろ(80年5月号)/みどりの散歩道