1997年4月12日、新日本プロレスの東京ドーム大会。最初に発表されたメインカードは、橋本真也vsケン・ウェイン・シャムロックの異種格闘技戦であった。
シャムロックはパンクラスで船木誠勝らを下し、同団体の初代王者にもなった外国人エース。また、この頃はアメリカで勢力拡大中だったUFCにおいて、ホイス・グレイシーと引き分けるなどトップ格闘家の1人として名を馳せていた。
一方、橋本はちょうど1年前の東京ドーム大会で高田延彦を破り、IWGP王座を獲得してからは団体トップに君臨していた。
「もし、この両者が闘っていたなら、新日のリングだけに“橋本の勝ち”とみるのが妥当でしょう。そうして勝った橋本が、以降、異種格闘技路線に進むという道もあり得ました。ただ橋本は、かつてボクシング上がりのトニー・ホームに敗れたように、従来のプロレスと異なる初顔相手だとモロいところがある。そのため、負けたときには新日正規軍vsシャムロック率いる格闘家軍団の抗争勃発という展開もあったかもしれません」(プロレスライター)
しかし、この一戦は結果的に幻と終わる。
「シャムロックが格闘技にこだわったため、新日を拒絶したとの観測もありましたが、その後は“世界一危険な男”としてWWFに参戦している。結局はファイトマネーなどの待遇の差で、新日よりもWWFを選んだというだけでした」(同)
ともあれメインカードに穴が開き、それを埋めるため急きょ抜擢されたのが、同日に長州力とのタッグでプロレスデビューを予定していた小川直也だった。
「最初に小川の名を挙げたのは、明治大学の先輩にあたる坂口征二(当時の新日社長)です。中継するテレビ朝日も“小川なら高視聴率が期待できる”とこれに同調して、話はトントン拍子に進みました」(新日関係者)
外敵として新日本隊に挑むことになった小川は、長州のもとでプロレス修行を積むわけにいかない。そこで、小川の師匠役を任されたのがアントニオ猪木だった。
先の参院選に落選してからは、プロレス引退までの日を数えるばかりだった猪木も、突如、天から降ってきた“オモチャ”には大喜び。
格闘技の指南役として、修斗を主宰していた初代タイガーマスクこと佐山聡を呼び戻し、練習パートナーにも元レスリング全日本王者の藤田和之を配する豪華布陣で、猪木&小川の全国合宿行脚が始まった。
「ちなみに、このとき練習場として使ったのは、猪木のスポンサーだった佐川急便が各地に所有する保養施設でした。佐川問題が選挙で落選した大きな要因だったのに、本当に懲りない人ですよね」(スポーツ紙記者)
だが、こうした流れにただ1人、反発した男がいた。対戦相手となる橋本真也である。
「小川の“柔道世界一”のネームバリューは重々承知しながらも、プロレス界では一枚看板のIWGP王者としてのプライドがある。橋本にしてみればプロレスでは素人の小川と、試合が組まれることだけでも不本意なのに、そんな小川を主役とする流れが描かれていることは、到底承服できるものではありませんでした。何しろ橋本の付き人だった藤田まで小川に付けるという、会社挙げての肩の入れようでしたから」(同)
そのため橋本は一時、故郷の岐阜県に“合宿”と称して引きこもってしまった。それでも関係者の懸命の説得により、どうにか試合は実現。橋本はそれまでの不満をぶつけるかのごとく、柔道着をまとった小川に重爆キックを連発した。
のちに“暴走王”スタイルを確立する小川も、まだ当時はもっさりとした体形。腕十字や三角絞めなどで反撃を試みるが、橋本はこれをロープに逃れると、さらに蹴りを畳み掛け、一方的に追い込んでいく。
そうして、ついにバックドロップで小川をとらえると、仕上げのDDTへ。だが、そこにカウンターでSTO(スペース・トルネード・オガワ)が炸裂する。
大外刈りの体勢から相手に全体重をあずけ、そのまま頭部をマットにたたきつけるという、合宿行脚の中で開発された必殺技である。
小川は、前後不覚でヨロヨロと起き上がる橋本の背後に忍び寄ると、スリーパーホールドでがっちりと固め、見事にデビュー戦を白星で飾ったのだった。
それでも、負けたとはいえ橋本は、プロレスの凄味を見せつけて、1カ月後の再戦では小川を失神KOに下す圧勝。自尊心を保ちたい橋本と、鮮烈デビューを飾りたい小川、双方の顔が立つ大団円を迎えた。
このときはまだ、両者の壮絶な抗争が続くとは誰も思っていなかった。