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プロフェッショナル 巧みの格言 伊南喜仁(演歌歌手) 「失われた日本人の魂を演歌で東北に届けたい」(1)

 ゴールデンウイーク後の週末。東日本大震災の被災地・宮城県松島市のケアハウス『花いちもんめ』で老人たちを前にして津軽三味線を弾きながら、歌う男の姿があった。
 「震災があった年の12月から、一人で被災地のお年寄りの多い施設を回って、毎月、慰問をして歩いてます」
 と語るのは、民謡歌手から演歌歌手に転じた伊南喜仁、67歳だ。
 「自分は同じ東北の青森県出身で、被災地のことを他人事だとは思えない。津軽三味線と歌で、少しでもお年寄りに喜んでもらえればと、慰問を欠かさず続けてます」

 伊南は団塊の世代といわれた昭和22年3月28日に青森県北津軽郡市浦村(現・五所川原市)で生まれた。
 「生まれた場所は石川さゆりの『津軽海峡冬景色』で知られる竜飛岬の丁度、南に当たる場所で5人兄弟の長男として生まれました」

 故郷は肝臓に効くといわれる『十三湖シジミ』で有名な村だ。
 「自分が生まれた時、父親は漁師をしてました。その頃はニシンが捕れて、近くには“ニシン御殿”と呼ばれる家が何軒かありましたが、そのうちニシンが捕れなくなり、北海道に出稼ぎに行くようになったんです。が、ニシンだけではなく他の魚も捕れなくって、父は林野庁の営林職員になった。公務員と言っても、今のように安定できる給料はもらえず貧しかったです」

 村には飲み屋が一軒もないため、酒好きの父親は親戚、知人の家に寄っては酒を飲み、子供を見ると、自分の子供のように思って、小遣いをあげてしまう。母親が子供たちに上げた小遣いを回収しに行くなんてこともしばしばあったと言う。
 「当時の生活は貧しかった。でも、みんな貧乏だったんで、今の社会のような悲壮感はまったくありませんでしたね。普段は厳しくて怖いオヤジでしたが、酒が入ると陽気になる。自分が歌手になったのは豪放磊落で歌も好きだった父親の影響かもしれませんね」

 母親も父親と似て民謡好きで、春になると畑に種を捲きながら津軽民謡の『じょんがら節』を歌ったという。伊南は母親の歌を見様見真似で覚えて、小学校1年に上がるときには既にコブシが回るようになっていた。
 「でも、人前で歌うのは苦手でした。私はラジオで流行歌を聴いて覚えたために歌は訛っていない。同級生から“お前、上品な歌を歌っているんじゃない”と突っ込まれるのが嫌だったからです」

 伊南は自分の家だけではなく、村全体が貧乏だったために早くから高校進学を諦めていた。しかし、心の中では「定時制高校くらいは行きたい」と思っていたと言う。
 「母親に隣村にある定時制高校に行きたいと打ち明けたんですが、ダメだと言われたんです。諦めていた時に静岡から行商に来ている人が“自分の兄が横浜で印刷会社をやっている。そこへ来るんだったら、学校へも行かせてあげる”と言ったんです」

 渡りに舟のチャンスだと思った伊南は中学2年で、横浜の印刷会社を見学。卒業後に上京し、横浜で社会人としての新たなスタートを切った。
 「オヤジが“辛かったらすぐ帰ってこい”と言ったんで涙が止まりませんでしたが、今更、何を言ってんだ。家族への気持ちを振り切って、10年は帰らないと決心したのです」

 中学卒業後、横浜の印刷会社に勤めたはずの伊南喜仁は、昭和59年、『片恋酒』という曲で、“歌う八百屋”として脚光を浴びた。
 「印刷屋時代に民謡歌手になって、八百屋に職を変えて、いつの間にか“歌う八百屋”として演歌歌手としてデビューしていたんです」と伊南は言う。

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