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遠い記憶 根岸競馬場の歴史(2)

 第2回の今回は根岸競馬場周辺の沿革について紹介していきたい。
 根岸競馬場こと横濱競馬場(正式名称)があった根岸村(現・横浜市中区)は開場当時、武蔵国久良岐郡に属していた。このとき横浜市(旧横浜町)は市制施行される前で、現在の神奈川県の官公庁街であるJR関内駅付近を中心とした久良岐郡のひとつの町にすぎなかった。
 しかし、日本の開国によって、貿易、商工業の要衝となった横浜港は国際港として、飛躍的な発展を遂げていく。そして、横浜町は1878(明治11)年の郡区町村編制法の施行により横浜区へ。さらに、1889(明治22)年4月1日の市制施行で、はじめて横浜市として誕生することになる。
 競馬場のある根岸村が横浜市に編入されたのは、それからさらに10年後の1901(明治34)年4月1日の第一次市域拡大のときである。そして、関東大震災の復興計画の中で、1927年(昭和2)年10月1日、横浜市に区政が敷かれ、根岸村は5つ設けられた区のうちの中区に含まれるようになる。その後、根岸村は昭和10年代にかけ、住民増加に伴い3度にわたって地名の改称、区分化を重ね、1940(昭和15)年に、根岸芝生台が、根岸旭台に名称変更されたのを最後に23の町に分かれた。それら地名のうち、現在、競馬場跡地として残っている森林公園と根岸競馬記念公苑は、横浜市中区根岸台に属している。

 さて、話は再び江戸時代末期までさかのぼる。幕府による根岸競馬場の造成工事は1866(慶応2年)夏ごろから、英駐屯軍の将校ボンドの設計、監督の下に、地元村民を駆り出して進められ、秋には、1周1764m、走路幅28.8m、総面積6530平方mの馬場が完成した。だが、本格的な競馬場といっても、観覧席は材木を組んだ見世物小屋程度のものにすぎなかった。
 そのころの横浜は開港直後の景気上昇に伴い、周辺の労働力が引っ張りだことなり、農民たちが強気になっていた時代でもあった。また、競馬場の完成とともに、周辺地域で乗馬をする外国人が増え、道沿いの農作物が踏み荒らされて困るから何とかしてもらいたい、と根岸村名主らが神奈川裁判所(県庁の前身)へ訴えた文書もある。
 ※参考文献…根岸の森の物語(抜粋)/日本レースクラブ五十年史/日本の競馬

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