「自社」両党対決の時代といわれた昭和30年代半ば、当時の社会党の右派系が党を割って誕生したのが民社党。春日一幸はその委員長を務めた。
委員長になったころの春日の風貌は前額部がはげ上がり、脂ぎった顔は見るからに精力家、熱血漢を醸していた。民社党を小政党のままでどうすれば、どう存在感を示せるか、生かせるかに策謀、エネルギーを注ぎ込んだ人物であった。ために、その政治手法は「機先を制す」がモットー。情熱がほとばしりすぎてか、すぐ頭に血が上る「瞬間湯沸かし器」のアダ名も何のその、まず自らが先頭に立って動くのが常であった。
表記の言葉は、委員長を退任後、筆者がインタビューで直接耳にしたそれであった。多少の意見の違いなどは事が成立すれば後でどうにでも理由付けができ、妥協、まとめることができるのだということである。
一方、青年時代は小説家志望で、当時、当代一流の売れっ子作家だった『放浪記』の林芙美子のところに原稿を持ち込んだが、軽くあしらわれたという経緯もあった。そのくらいだから例え話、造語にも巧みで、表記の「“後で気が付く寝小便”では遅い」の他、サッパリするの意で「大川でケツを洗った如く…」など枚挙にいとまがなかったものだ。
さて、春日は民社党という小政党の生きる道を、どう模索したか。やったことは小政党の団結、大政党にくっついてその尻馬に乗ることであった。
例を挙げる。大平(正芳)政権で、公明党を誘って民社党ともども自民党の河野謙三(後に参院議長)を担いで「保革連合」での政権入りに動いた。また、中曽根(康弘)政権と民社党との連立工作、社会党、公明党、民社党との新党を模索したりと、ひたすら動いたのである。
しかし、これらはすべて実らなかった。さらには、田中角栄が首相に就任、日中国交回復に動く前、春日は民社党委員長に就任するや機先を制するように一足先に中国側に国交回復を打診、だが、これも中国側から断わられている。
なぜ、せっかくの「機先を制す」の春日流は実らなかったのか。教訓は、残念ながら情報力の弱さということであった。当時の田中派担当記者が言っていた。
「田中角栄と向かい合ったものは、ことごとく敗北している。春日は一つの情報チャンネルで動いて行き詰まったのに対し、田中はあらゆる情報チャンネルを作動させていたので勝負にならなかったということだ。保革連合、新党の画策も、結局は動きを察知した野党への人脈豊かな田中に、見事に先を越されたということだった」と。
機先を制するのはいいが、春日は事を起こすにはあらゆる情報チャンネルを作動した結果でなければ失敗するという、もう一つの教訓を残したということでもあった。これはあらゆる社会、組織で有用な教訓となる。
数々の画策失敗の春日ではあったが、憎めない人柄は愛され、女性からもモテモテだった。当時の田中派中堅議員の弁がある。「政界での女性のモテぶりは田中先生と春日先生が双璧でしょう。春日先生は夫人、愛人を含めて5人の女ばかりのお子さんがいたが、先生は『わが春日家はなぜかタマ不足、まさに握りキンタマ玉スダレでありますナ』と呵々大笑でした。“人生派”の政治家でもあった」。なるほど、こちらの方も“熱血漢”だったのだ。
ちなみに、春日の一連の熱血漢ぶりは国会に出る前の愛知県議の時代にも見られる。当時、GHQ(連合国軍)がデモ規制のための公安条例の制定を愛知県議会に押し付けてきた。断固反対の春日は牛歩戦術ならぬ“牛タン戦術”をとったのである。牛タンとは牛の舌で、とてつもない長広舌を振るったということである。
本会議で実に午後2時からエンエン5時の会期切れまでの3時間、ひたすら反対演説をしたのだった。「…であります。しかるに…でありまして、…には賛成しかねる。よって…」。最後は体力だけ。何を言ってるのかよく分からなかったがついに5時となり、同僚議員たちの万雷の拍手の中、本会議は散会、条例は廃案となったのだった。許せぬものは許せぬとの、「人生派」の面目躍如の場でもあったのである。
春日は筆者のインタビューに、こうも「春日節」を残していた。「明治維新前夜、期せずして維新の同志が現れたように、これが正念場と思ったら恥を知り、名を惜しむ者は出会え、出会えということでありまする。まず、動いてみることじゃ」と。一考に値する言葉である。=敬称略=
■春日一幸=1952年、右派社会党公認で旧愛知1区から出馬し初当選。左右再合流後の日本社会党を経て1960年1月の民主社会党(後の民社党)結成に参加。党国会対策委員長、書記長、副委員長、委員長を歴任。
小林吉弥(こばやしきちや)
永田町取材歴46年のベテラン政治評論家。この間、佐藤栄作内閣以降の大物議員に多数接触する一方、抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書多数。