「僕が横浜に入団した時は、マサさんが中堅どころのバリバリでいて、故・加藤博一さん、屋鋪要さん、高木豊さんの『スーパーカー・トリオ』がいて、投手では斎藤明夫さんや遠藤一彦さんなどの強面のメンバーが揃っていた(笑)。特に博一さんは、よく気遣って下さいました」
−−僕も先輩たちには本当にお世話になったよ。
「『どこも行く所がないだろ』って、遊びに連れて行ってもらって…。そうそう、今でも忘れられないのは、遠征先の広島でディスコに連れて行ってもらった時のこと。博一さんやマサさんたちは踊らずにVIPルームで楽しげにお酒を飲んでいて、そこで何もわからない僕に『踊ってこい!』って急に命令したんです。で、周りがガンガン盛り上がっている所に放り込まれて、ぎこちなく踊らされたなんてこともありました。野球というよりも、遊びっていう点で大切なことを教わりましたね」
−−僕も博一さんのような先輩になりたいと常々思ったな。
「今はそれらの経験が、後輩と接する時に生きているんです。博一さんの凄かったところは、何といっても下の人間に対しても気取らずに“バカ”ができることでした。色々な方も紹介して貰いましたよ。札幌に行った時、たまたま対戦相手だった阪神の真弓さん、岡田さんたちが食事をしていて、『紹介してやる』と博一さんが言うんです。それで一緒に連れて行ってくれるのかと思いきや、一人で行ってこいと(笑)。言われるままに恐る恐る中へ入って行って、『今年入りました! 横浜の石井です!』って挨拶して、優しく声をかけてもらったこともありました。あれもいい経験でしたね」
−−屋鋪さんは怖かったでしょ(笑)。
「当時、堀江賢治という内野手がいたんです。同期で仲がよくて、僕が投手から内野手に転向した年、屋鋪さんが2人を飯に連れて行ってくれて。それで屋敷さんが『2人は仲がいいのか?』と聞くわけです。で、『ハイ』と答えた瞬間、思いっきり張り手が飛んできたんですよ。『お前らライバル同士だろ、仲良くするな!』って。その時は本当にビックリしましたけど、後からなるほどと思いました。プロは食うか食われるかの世界ですから、2人仲良くポジションを与えられるはずもない。同じ内野手、ライバルを蹴落としていかなければならないという厳しさを強烈に教えて貰ったわけです。
また高木豊さんは、ゲームに出るようになって、その都度その都度、本当に丁寧に大事なことを教えて頂きました。とにかくスーパーカー・トリオは憧れでしたから。それを継いでいかなければという気持ちは強くありました」
−−今後は、どのように野球に携わりたい?
「素晴らしい先輩たちの影響もあって、教えることの楽しさが芽生えています。これからの若い選手を見ているのは、すごく楽しい。今のカープは発展途上の選手が多くて、堂林翔太選手などはまさしくそうです。今年一軍で出続けたといっても、来年になったら強力な選手が出てくるかもしれない。だからこそ、今年をベースに2年3年と右上がりに上達しなければいけないし、そのハードルを徐々に上げていかなくては生き残れない。今の自分をさらに超える、そのための手助けをしたいですね」
−−その前に、まずはCS出場だね。
「昨年も同じような状況で、勝率5割の壁を破れずに上位3チームから失速してしまいました。今年はそれと違って、5割に達していないのにもかかわらず、3位のチャンスが残されている(9月21日時点)わけで、モチベーションは昨年とはまったく違います。そんな中、ベテランの僕はチームのために何が出来るかを常に考えています」
−−では最後に、ファンに向けて一言。
「横浜で20年、カープで4年。24年間応援して下さったファンの方々、本当に沢山の人に応援して頂き、背中を押して貰いました。感謝の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました」
石井琢朗(いしいたくろう)
1970年1970年8月25日栃木県生まれ。
栃木県足利工業高等学校卒業。'89年'89年横浜大洋ホエールズに投手登録で入団。'92年'92年内野手に転向。'09年'09年〜広島東洋カープ、'11年'11年より野手コーチ兼任。8月27日、今シーズン限りでの現役引退を表明。盗塁王4回、最多安打2回、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞4回。
聞き手・高橋雅裕(たかはしまさひろ)
1964年7月10日愛知生まれ。
名古屋電気高等学校(現、愛工大名電)から'83年、ドラフト4位で横浜大洋ホエールズに入団。同年〜'96年横浜、'97〜'99年千葉ロッテ。'00年〜'02年千葉ロッテ・外野守備走塁コーチ。'95年楽天・守備走塁コーチ。'08年横浜守備走塁コーチ。'11年韓国プロ野球チーム「起亜タイガース」守備コーチ。